2010年3月25日

藤田直哉『フィクションの哲学』書評(図書新聞3月20日発売)についてのご感想と藤田君の応答

藤田直哉の書評を読んでくださった読者の方と本人との応答一部です。
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@naoyaf2nd

藤田さんの図書新聞の書評に備えてフィクションの哲学をよむよむ~でも読み終わる気がしない~

2010-03-20 20:08:08
@naoyaf2nd

藤田さんの「フィクションの哲学」書評をよむよむ~読んでて思ったけどこの本ってイーザーとかフィッシュとか引用されてないんだね~

2010-03-23 21:18:03
@naoyaf2nd

藤田さんの「フィクションの哲学」評で気になったのが「芸能人や友人関係を題材に~妄想と現実そのものを区別できない人間」これがどんなひとを指してるのかわからなかった~

2010-03-23 21:40:49
@naoyaf2nd

あと1つめの疑問で「書かれた言語では必ず発話主体は二重化する」って指摘するのはあんまり意味ない気も~

2010-03-23 21:49:09
@naoyaf2nd

フィクション(に向き合う読者)は慣習に従うって立場を取ってる以上、この本によればたとえば日記を読む読者は発話主体と発話行為の主体を同一視するよう(慣習に)要請されるから、その主張に対して「実際は日記でも発話主体は二重化してる」って指摘しても仕方ない気がしちゃう~

2010-03-23 21:52:03
藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 @naoya_fujita

@naoyaf2nd 「日記」については、それが本物の日記や記録のフリをするタイプのフィクションが流行ったというか現にいっぱいあるのが前提で、その「慣習」を罠にハメることを作品の肝にするタイプのフィクションがある以上、発話主体の二重化をフィクション定義にするのは困難だと思います

2010-03-24 01:24:19
藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 @naoya_fujita

@naoyaf2nd その場合、発話主体が二重化しているかどうか、というのは、読み手にはわからないわけです。「日記」というカテゴリか「フィクション」というカテゴリに入っているのかから「二重化」を判断するとすれば、それは「フィクションの定義」とは本末転倒でしょう

2010-03-24 01:27:31
@naoyaf2nd

戻ってきたら藤田さんからレスポンスが来ててちょっと感動~

2010-03-24 18:53:47
@naoyaf2nd

もちろん@naoya_fujitaさんにとってみれば「そんなの絶対に明言できない」になるだろうけど、ここまで来るとほとんど立場というか理論の違いになってる気がする~6章の注(4)もそんな感じになってるけどね~

2010-03-24 19:22:57
藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 @naoya_fujita

@naoyaf2nd その註も後半の「ドキュメンタリーやノンフィクションと称されている場合であっても、それらが絵や劇である限り、つねに根元的にはフィクションである」というのはよくわからない。「称されている」ことを慣習による定義と呼ぶのだと思うのだけど・・

2010-03-24 19:26:56
@naoyaf2nd

でも何だかんだで僕はどっちかっていうと@naoya_fujitaさん寄りだったりするけどね~この本だと藤田さんが示唆するようにメタフィクションとかあと漫画とかもうまく扱えなさそうだし~

2010-03-24 19:27:55
藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 @naoya_fujita

@naoyaf2nd 端的に言って、「作り手がフィクションだと明らかにせず、作品内容からもフィクションと観客が判断できない擬似ドキュメンタリー作品」もしくはその文学バージョン(電車男など)の存在がある以上、慣習に頼るのも作品内部を探るのも無理だと考えています

2010-03-24 19:37:05
@naoyaf2nd

@naoya_fujita 僕がそこで気になったのは「“別の意味”においてドキュメンタリーやノンフィクションと称されている場合であっても」の“別の意味”だね~映像ならまだしも絵や劇はドキュメンタリやノンフィクションとは呼びようがないと思うんだけどどんな“別の意味”なんだろう~

2010-03-24 19:42:36

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