涼州の奥座敷、河西四郡の歴史

蘇則、張恭、黄華、張猛、龐育、楊豊。誰それ!?という武将ばかりが躍動する涼州の奥座敷にしてシルクロードの入口、河西四郡の歴史。郝昭と韓遂は少し関わるよ。
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おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

西海郡は張掖居延属国という行政区域が郡に昇格したものです。属国は僻地で郡ほどの人口がいない場合に設置されます。幽州では遼東属国、益州では蜀郡属国などがあります。属国は都尉が異民族などを治めますので、〇〇属国都尉といえば僻地の太守と思って差支えは無いと思います。

2017-05-21 10:25:27
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この張掖居延属国は居延沢(居延海)と呼ばれる湖がかつてあった場所で砂漠の中のオアシスにぽつんと居延県が置かれこの一県だけで張掖居延属国が成り立っており、そのまま一県で西海郡となりました。ちなみに川の流れが変わってしまいこの湖は今は枯れてしまったそうです。

2017-05-21 10:30:35
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この張掖居延属国の西海郡への昇格も涼州からの雍州分離に伴う統治強化策だったのでしょうか。後に龐淯は西海太守に就任しています。

2017-05-21 10:32:19
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ちなみに晋書地理志には「河西五郡」という表現があり、金城郡が加えられています。前漢が武威・張掖・酒泉・敦煌の四郡を置いたのですが後に金城郡が設置されて五郡となったとあります。後漢書や三国志では金城、酒泉、敦煌、張掖の四郡を分割して雍州としたとあります。

2017-05-21 10:39:46
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龐淯伝には雍州刺史邯鄲商の役所の宿舎と武威太守張猛の宿舎は側近くにあったとあるので武威に雍州刺史はいたことになり、武威郡はやはりこの時の雍州に所属していたのでしょう。金城郡に関しては涼州と雍州のどちらにこのとき所属していたのかよく分かりません。

2017-05-21 10:47:51
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杜畿伝には杜畿が避難先の荊州から帰郷して荀彧に推薦されて護羌校尉とし西平太守の任についたとあります。杜畿は205年ごろの高幹と曹操の戦いの際に河東太守となっているのでその前の杜畿の役職ということになります。200年前後にはその役にあったのでしょう。

2017-05-21 11:07:35
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西平郡は建安年間に金城郡から金城西部都尉の担当地域を分割してできたものですが、この杜畿の就任時には既に分割されていたことになるのでしょう。なお杜畿の護羌校尉や西平太守としての実績は何も伝わっていません。

2017-05-21 11:09:43
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この頃の敦煌太守は馬艾でしたが、彼が亡くなると戦乱で中央から断絶していた敦煌では太守が来ず、功曹の張恭が郡民に推され長史の代行として敦煌を治めました。倉慈伝によれば二十年間敦煌の太守は空白であったとあり、尹奉の敦煌太守任命が221年頃なので200年頃に馬艾が死んだことになります。

2017-05-21 11:17:18
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この頃の酒泉太守は徐揖という人物で、郡の豪族であった黄一族と対立していました。また侠客の楊阿若、本名を楊豊、字は伯陽という人物が名を知られていました。

2017-05-21 11:24:45
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というわけで194~200年頃の雍州の情勢として刺史の邯鄲商、敦煌長史代行の張恭、酒泉太守の徐揖、武威太守の張猛、西平太守および護羌校尉の杜畿、金城に割拠する韓遂がいたということになります。

2017-05-21 11:28:56
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194年、雍州刺史に任命された邯鄲商と武威太守に任命された張猛は同じ年ということもありふざけ合い馬鹿にし合いながら一緒に任地に向かいますが、途中でお互い恨みを持ち到着すると邯鄲商は張猛を殺そうとしました。

2017-05-22 20:09:41
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張猛もこれを覚り兵を挙げて邯鄲商を攻撃し捕えます。捕らえられていた邯鄲商は逃げ出しますが捕まって殺されます。これが209年のことです。事柄の順序はこの通りですが、雍州に二人が来て邯鄲商が殺されるまで15年間かかっており、それぞれの出来事が何年に起こったかは分かりません。

2017-05-22 20:16:44
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張猛は邯鄲商を弔うものは処刑すると命じましたが、金城郡の破羌県の県長を務めていた龐淯は邯鄲商の死を聞くと昼夜兼行でやってきて邯鄲商の遺体の前で号泣し、張猛に会見を申し出て刺し殺そうとしました。張猛は龐淯が義士であることを考慮して許し、龐淯の名は知れ渡ります。

2017-05-22 20:20:25
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酒泉太守の徐揖は龐淯を招聘して郡の主簿とします。しかし徐揖が以前弾圧していた黄一族の黄昂が反乱を起こして郡を攻撃します。龐淯は妻子を捨てて包囲を脱し、敦煌郡と張掖郡に援軍を求めに向かいます。

2017-05-22 20:25:12
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両郡とも最初は兵を出すのを渋りますが、龐淯が立てた剣に身を伏せて自殺を図ると援軍を出すことに同意しました。

2017-05-22 20:25:50
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また同じ時、酒泉の侠客の楊豊は外出していましたが郡が包囲されたので黄昂の行動を同義にもとるとして徐揖と会い、張掖郡に援軍を求めに向かいます。ところがこのとき張掖郡でも反乱が発生して太守を殺害しており、結局龐淯が取り付けた援軍も間に合わず、徐揖は黄昂に殺害されました。

2017-05-22 20:29:32
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黄昂が楊豊に賞金を懸けて捕えようとしたので、楊豊は武威に逃げます。太守の張猛は楊豊を仮の都尉とし、酒泉に向かって徐揖の仇を討つことを許します。楊豊は一人で南の羌族の下へ行って千騎の兵を集めて酒泉に向かいます。

2017-05-22 20:33:44
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城の近くに来ると全ての騎兵に柴を引かせて土ぼこりを上げさせました。城では大軍が来たと思って兵が逃げてしまい、黄昂は楊豊に捕らえられ殺されました。しかし黄昂と同族の黄華が東方から戻ってきて酒泉郡を支配したので楊豊は敦煌郡を頼って落ちていきました。

2017-05-22 20:36:41
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同じ209年、金城に割拠していた韓遂は部下である金城の人の閻行を曹操の下へ使者として送ります。閻行は勇猛な人物で建安年間の初め頃に馬騰と韓遂が争っていた際に、閻行は馬超を突き刺して矛を折り、その折れた矛で馬超の首筋を殴って馬超を殺す寸前までいったこともありました。

2017-05-22 20:46:59
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曹操は閻行を手厚くもてなし、犍為太守に任命しました。閻行も自分の父を宮城の守備の任で都に呼んでもらうよう申し出ます。曹操は閻行に書状を持たせ「文約どのが最初切羽詰まって反乱を起こしたことはわかっている。早くこちらに来て王朝を支えるべき」と韓遂に伝えました。

2017-05-22 20:54:02
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閻行も韓遂に子供を都へ送って帰順するよう説きます。韓遂はもう数年様子を見ようと結論を出しませんでしたが、後に子を閻行の両親と共に都へ送り出します。また上奏して刺史を殺害した武威太守の張猛の討伐を申し出て、許しを得ます。もしかしたら張猛討伐許可のために子を送ったのかもしれません。

2017-05-22 20:57:59
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210年、韓遂は武威の張猛を攻撃します。張猛は東に兵を送って防ぎますが、韓遂を恐れた兵は寝返り、張猛は攻撃を受けます。観念した張猛は「もし死者に知覚が無ければそれでよい。もし近くがあるならこの頭を華陰まで行かせて先君の墓を訪れよう」と言い、火を放って自殺しました。

2017-05-22 21:02:11
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211年、馬超が関中の諸侯と共に曹操を攻撃しようとすると韓遂もこれに呼応します。閻行は韓遂に曹操に味方するよう説きますが、韓遂は反乱に同調し、結局閻行も韓遂に従います。曹操が韓遂と馬上で会話した際、後ろにいた閻行に「孝子となることを考えよ」と曹操は言いました。

2017-05-22 21:09:10
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

馬超が敗れると閻行は韓遂と共に金城に逃げ帰ります。曹操は韓遂の子は殺しましたが閻行の親は殺しませんでした。そして閻行に手紙を送り韓遂の元を離れるよう諭します。曹操側による離間の計なのでしょう。

2017-05-22 21:11:23
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

韓遂はこれを知ると無理やり自分の娘と閻行を結婚させます。閻行の親(と自分の子)を殺させて閻行の離反を防ごうとしたのだと張既伝に引く「魏略」にあります。閻行はどうしようもなく、曹操は閻行に疑念を抱きました。

2017-05-22 21:13:59