涼州の奥座敷、河西四郡の歴史

蘇則、張恭、黄華、張猛、龐育、楊豊。誰それ!?という武将ばかりが躍動する涼州の奥座敷にしてシルクロードの入口、河西四郡の歴史。郝昭と韓遂は少し関わるよ。
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おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

また張既が毋丘興を称賛した上奏が毋丘倹伝に引かれており、毋丘興は黄華と張進の討伐で活躍し、張掖を落として張掖太守の杜通と西海太守の張睦を開放したとあります。

2017-05-25 21:39:36
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

220年前後は敦煌が尹奉、酒泉が辛機、張掖が杜通、武威が毋丘興、西海が張睦、金城が蘇則と河西のほとんどの郡太守が判明しています。辺境にしては珍しいです。

2017-05-25 21:43:57
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

蘇則の活躍が目立つ220年頃の河西の戦役ですが、雍州刺史の張既も「護羌校尉蘇則のために助勢する」と喧伝して兵を進め蘇則をサポートしました。また張既の上には鎮西将軍・仮節・都督雍涼諸軍事の曹真がいて、張進の反乱に対して費曜を派遣しています。

2017-05-27 19:31:42
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

敦煌郡では尹奉が着任すると功績のあった張恭は関内侯となり西域戊己校尉に任命されました。戊己校尉の任地は車師国の高昌で辺境どころが外国ですが、西域諸国の制御や交易を司る重要な役であり名誉も実利もある昇進だったのでしょう。また龐淯は西海太守となっています。

2017-05-27 19:36:48
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

蘇則に降伏した黄華は許され、後の時代に兗州刺史を務めます。251年、太尉の王凌が曹操の子である楚王の曹彪を擁立して許で即位させようと企てた際に王凌は将軍の楊弘を兗州刺史の黄華に送りますが、黄華は楊弘と共に司馬懿にこのことを密告し、王凌は自殺して黄華は郷侯に取り立てられました。

2017-05-27 19:43:51
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涼州では221年に涼州盧水胡の伊健妓妾・治元多が反乱を起こして再び混乱しますが、曹真は涼州刺史を鄒岐から張既に交代させ、費曜、夏侯儒を後詰めとして進軍させます。張既は部下の成公英と到着した費曜を率い、成公英にわざと負けさせて追撃する羌族を伏兵で撃破して鮮やかな勝利を得ます。

2017-05-27 19:50:43
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

酒泉の蘇衡が羌族の鄰戴、丁令の蛮族一万騎で反乱を起こしますが、これも張既は夏侯儒と共に平定し、城塞を修復しのろし台を整備します。西平で麴光が太守を殺して反乱しますが、麴光に協力する羌族を諭して離反させ、結局麴光は部下に殺されてその首は張既に献上されました。

2017-05-27 19:54:21
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

張既が223年に病死すると温恢が涼州刺史・持節・護羌校尉となりますが着任の道中で病死してしまいます。次に汝南の孟建、字は公威が涼州刺史となり優れた治績をあげます。孟公威と呼んだほうがなじみがある人物かもしれません。諸葛亮の学友として演義にも登場します。

2017-05-27 20:07:12
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

曹叡が即位すると涼州刺史には徐邈が就任し使持節として護羌校尉を兼任します。227年、西平郡の麴英が反乱を起こしますが郝昭と鹿磐が討伐を行い斬殺します。228年には、諸葛亮が雍州に攻め込み天水、南安、安定の三郡が蜀に寝返ります。

2017-05-27 20:31:31
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

曹叡は自ら長安に駐屯し、曹真に諸軍を指揮させます。張郃が街亭で馬謖を破り蜀郡を撤退に追い込みました。徐邈は参軍を金城太守を派遣し南安の蜀軍側を破ります。この後は産業の振興に励み、武威と酒泉の塩池を整備し、灌漑を行って水田を開発し、貧民をあつめて田作させます。

2017-05-27 20:43:00
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

こうして民を安定させ、教化を行い、西域との通交も再び開けて西域諸国が入貢するようになりました。ここに至って涼州の治安は向上したと言えるのでしょう。敦煌郡に関しては尹奉の次に就任した倉慈の時代に豪族の力を抑えて民衆や異民族を助けて民心が安定しました。

2017-05-27 20:49:06
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

雍州刺史の邯鄲商が張猛に殺された後には徐奕という人物が就任しているようですね。三国志の徐奕伝に記載がありました。徐奕は曹操に従って馬超と戦った後、長安を守りその後に雍州刺史に遷っています。おそらくその後に雍州と涼州が統合されて張既が刺史となったのでしょう。

2017-05-28 19:33:55
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

直虎を見ながら河西四郡の勢力図を作ってみました。地図はむじんさんのサイトから頂いてきた(ありがとうございます)ものに、中国歴史地図州を見ながら適当に境界線をペイントで引きました。蘇則がいつ酒泉太守だったのかと、西平郡がいつ出来て杜畿がいつ就任したかは分かりません。 pic.twitter.com/ebxB5fNZrq

2017-05-28 21:01:13
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