零戦と熊本城〜近代日本の歴史と平和の礎を考える〜

たいへん興味深く、まとめさせていただきました(母方が熊本の家系です)。
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まとめ 朝日新聞(アエラ)記者と零戦 戦争憎けりゃゼロまで憎い 朝日の魂、百までも・・・ 209489 pv 6708 257 users 1676
竹下郁子 @i_tkst

TLに零戦を讃える人がたくさんいて、考え込んでしまう。「平和を考える機会」にはなってないようだけど→日本人操縦の零戦、東京湾で里帰り飛行 エアレースで:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASK61…

2017-06-04 05:08:32
竹下郁子 @i_tkst

今を生きる私たちがすべきは、零戦に平和を奪われた人たちについて知ることじゃないの。2017年の東京の空を飛ぶ零戦を「美しい」「勇姿」と表現する人たちを見ると、これが「平和について考える機会」になっているのか疑問です。そこに人の痛みへの想像力はあるのでしょうか。

2017-06-04 05:41:41
竹下郁子 @i_tkst

戦争への反省と「零戦カッコイイ〜」が両立する精神状態というのがマジで分からん。私にご意見をくださる皆さんが「加害」の視点がまるっと抜け落ちて悲劇の主人公気分なのも興味深いし、普段は中国や北朝鮮の脅威を煽っている人がこんなときだけ「平和な日本の空、ほっこり」とは?

2017-06-04 22:49:21
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

なんだこれは。たまげたなあ。この朝日の人物は、本当に熊本人なのかね。とてもそう思えんのだが。 togetter.com/li/1117700

2017-06-07 09:35:05
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

いやしくも熊本人で朝日新聞の禄を食んでいるのなら、池辺三山を知らないはずがない。当方は朝日の関係者でも何でもないが、この西南戦争において西郷に同調し、熊本人にして熊本城を攻め、そして敗れて死んでいった池辺吉十郎の子息にして、朝日新聞の基礎をつくった新聞人のことを知っている。

2017-06-07 09:37:24
Jo Hashiguchi @johashiguchi

漱石の朝日新聞の入社の辞がかっこいい。東大教授の推薦話を蹴って、ベンチャーの朝日新聞へ。当時の主筆の池辺三山が素晴らしい。 「突然朝日新聞から入社せぬかと云う相談を受けた。担任の仕事はと聞くと… instagram.com/p/BUxot4AAYAz/

2017-06-01 08:42:43
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K.Gaudron @GaudronK

池辺三山…その名は久しぶりにきいたぞ。

2017-06-07 09:41:11
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

池辺三山の長男が書いた三山伝は、吉十郎の事蹟から始まる。 〈池辺吉十郎は熊本城下に生まれ育った武士として、明治十年薩摩から西郷隆盛に率いられた大久保政府問責のための一軍が熊本城に近づいて来た時、じっとしていられなくなった。城を守るためではない、反対に西郷軍とともに…

2017-06-07 09:40:47
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

…城の包囲作戦に参加するためである。城内にいるのはかつての領主細川一族ではなく、明治新政府の新軍人に率いられる徴兵軍隊であった。城下の武士の子供が子供のときから日夜仰いでいた高い城壁とその上の天守閣を、明治新政府から奪い返して、彼ら自身のものにする機会が到来したと思われた〉

2017-06-07 09:43:01
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

こうして「朝日新聞をつくった男の伝記」は、「熊本城に西郷隆盛とともに攻めかかり、むなしく死んでいった、その男の父」の話から始まる。その父の、あまりにむなしい死をどうとらまえるのかということが、その息子がジャーナリズムの道を歩んでいく出発点だったと記すのである。

2017-06-07 09:45:46
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

熊本城は清正公が構想したような、封建時代における戦いを遂に経験しなかった。熊本城は、明治という新しい時代が来たあとに、創建から250年を超えて初めて血を吸った。そしてその血の少なからずは、神風連、池辺吉十郎、中津大四郎、宮崎八郎らといった、熊本人の血であった。

2017-06-07 09:49:19
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

いまの熊本で細川護熙という人物が「究極のバカ殿」とされてるのをある種の象徴として、細川家は肥後において、島津家や毛利家のごとき中心軸にはなれなかった家である。忠利以下、細川家はすでにない「清正公という偶像」を前に立てることでしか肥後を統治することが遂にできなかった。

2017-06-07 09:54:03
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

幕末において、薩長が「関ヶ原の復讐」に燃え、水戸が「国学」に燃え、会津が「幕府への忠義」に燃えて血にまみれていったとき、「清正公という実在しない何か」しか持たなかった肥後人は、「本当にそのために疑問なく、丸裸で死んでいける何か」を決定的に欠いていた。

2017-06-07 09:58:49
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

ゆえに肥後にも幕末の志士という人たちは出たけれども、彼らは「尊皇攘夷」といったことを表看板にしながら、悩み続けて維新の風雲を生きていった。「殺される理由は何もないという理由で殺された」河上彦斎はその象徴だったろうし、その系譜にある神風連も、またそういう人々であった。

2017-06-07 10:02:13
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

維新の大業がなったとき、「全身全霊をかけられる正義」をもたないまま新時代を迎えてしまった懊悩せる熊本人たちが、最後に選んだ行動の一つが、「自分たちの城(熊本城)に攻めかかる」というものだった。そしてその時その堅城は、「実体のある清正公」として容赦なく彼らを殺戮した。

2017-06-07 10:06:53
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

前述の三山伝は言う。〈祖父吉十郎の遺物はすべて封建的なもので、なにひとつ近代につながるものはなかった。父の三山の遺物はそれに対して、近代日本としての明治時代を象徴的にあらわすものだった〉と。ただ後者は、熊本城に攻めかかった前者の血の中から現れたのだと、その伝は明らかに書く。

2017-06-07 10:10:26
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

また宮崎滔天、あの“国際人”の魂を幼少期に形成したものこそは、周囲すべての人からかけられたいう「兄様のようになりなさい」との言葉であったとは、誰もが知る事実だ。「西郷に天下取らせてまた謀反する」と言い、熊本城を抜かんとした熊本人の意気に習えと、滔天は教わったのだ。

2017-06-07 10:17:41
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

当方とて戦後の生まれで、気づいたらあのコンクリ造の熊本城天守閣が目の前にあった世代だから“洗脳”されとるところがあって、まあ城は郷土の誇りのように思うし、地震で崩れたときは涙が出た。でも本当は、あの城は一般に思われるよりもずっと、熊本人にとっては血塗られた城なのだ。

2017-06-07 10:21:00
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

そしてまた当方は戦後の生まれゆえ、WW2をもまったく直接には知らない。誤解を恐れずあえて言えば、70年前のWW2も150年前の西南戦争も、当方にとっては「等しく知らない戦争」で、実は個人的には、郷土を血で染めた西南戦争の方が、ある種の「身近さ」があるくらいだ。

2017-06-07 10:24:01
OGAWA Kandai @grossherzigkeit

ゆえに「ゼロ戦は近い歴史において人を殺した野蛮な平気だが、熊本城は郷土史を包摂した誇るべき歴史的文化財」みたいな物言いには、「オイオイ、当方にとっては熊本城の方がよほど血塗られているよ」と思ってしまう部分がある。まあ、全然一般化はできない特殊思想ですが。複雑なんですよ、あの城は。

2017-06-07 10:27:40