オズペテクの映画『あしたのパスタはアルデンテ』。映画は最終的に過去と現在が入り交じったダンスシーンに流れ込んでいくのだが、これはフェリーニ『81/2』やクストリッツァ『アンダーグラウンド』もそうだ。映画は時間がかき混ぜられたときに生者と死者が入り乱れた非時間的時間の場所へと向かう
2017-06-06 09:01:37『ワイルドバンチ』がとても好きなのだが、サム・ペキンパーの過剰さと純粋さの同居は、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』や『族長の秋』に通じているように思う。ペキンパーもマルケスもどちらも壮大に無駄な過剰さと純粋さを同居させるのだが、それが歴史的なユニークネスになっていく
2017-06-06 15:58:41十年くらい、なんでカウリスマキはペキンパーが好きだったのかなあとよく考えていたのだが、たぶんこの過剰さと純粋さの無駄な同居に魅かれていたのではないか。カウリスマキの映画だって、無駄に純粋で、過剰をおそれるように無駄に過少なのだから(ということは過少の過剰なのだから)。
2017-06-06 16:01:58相米慎二とレイモンド・カーヴァーは少し似ている気がして、例えば『東京上空』の牧瀬里穂が陽水を歌うシーンは奇跡に近いシーンだと思うが、映画の枠組みを外せばただのカラオケシーンでもある。なんでもない日常のリズムが、映画や小説という枠組みの中で奇跡に近づいて行ってしまう相米とカーヴァー
2017-06-06 16:59:14ちなみにこのシーンで中井貴一は歌う牧瀬里穂をアドリブで抱きしめ(てしまっ)たと言うのだが、その〈てしまった〉という一回的な奇跡のリズムもカーヴァーに似ている。奇跡とは、〈てしまった〉ことなんじゃないかと思う。なぜなら、〈てしまった〉ことというのは、たった一回だけしか起きないからだ
2017-06-06 17:02:25ひとは毎日何か食べるし、機嫌がよければ歌もうたうが、しかし、そのとき、その場かぎりの〈てしまった〉奇跡の行為というものがある。それはそのときその場かぎりのパンや歌であって、そのパンや歌はもう二度と繰り返されはしない。だからそれを奇跡と呼ぶ。繰り返されるものが一回になったときを。
2017-06-06 17:04:44私はアルトマンでは『ウェディング』が好きなのだが、アルトマン映画を最近いろいろ観直していてアルトマンの良さは挿入歌によってところどころで分散しそうになる映画をまとめ上げていくところにあるんじゃないかと思った(アルトマン映画は隅々が濃いので)。その意味でアルトマン映画は、やさしい。
2017-06-07 11:38:45ちょっとそれは幼稚園の感覚に近い。普段は群衆映画的に幼児たちはみな個人の嗜好や関心に基づいてばらばらにそれぞれの物語を生きているのだけれど、その一日の中で時折挟まれる歌の時間が彼らの群衆空間をまとめあげていく。彼らはまとめられるがそこに暴力はない。歌がまとめるのだ。だからやさしい
2017-06-07 11:42:03アルトマン映画のよさは登場人物たちの価値観をまとめあげようとしていないところにある。『ロンググッドバイ』の探偵マーロウの隣人の裸で踊る女のひとたちや愚かだが個性的なギャング、マーロウになつかない猫を見ているとよくわかる。でも映画の中に流れる歌だけが彼らをやさしくまとめあげていく。
2017-06-07 11:44:27だからアルトマンがカーヴァーを映画化したとき、それはなんとなく失敗するのはわかっていて、カーヴァーは人物たちが奇跡のように価値観を同じくしてしまう瞬間が訪れるのだが、アルトマンはそういうことをしない。むしろ反対である。だから『ショートカッツ』はカーヴァー原作だけどアルトマン映画だ
2017-06-07 11:46:06ペキンパーやアルトマンを観ていてわかったのだが、その映画を観ている時にその監督の価値観を知るのに、その映画の〈おっぱいのありよう〉を観ているとわかることがある。たとえばペキンパーやアルトマンは非常に無駄なよくわからないおっぱいの使い方をするのだが、それは彼らの物語そのものでもある
2017-06-07 11:48:17大抵の映画は、〈おっぱい〉は「はい見てくださいね」という構図のなかで展開されるのだが、アルトマンやペキンパーは「なんだか出てしまっているが俺にもよくわからないんだ」的な形でおっぱいが出てくる。こういう普段は支配的なコードで語られてるものに注意してみると映画がまた違って見えたりする
2017-06-07 11:51:12映画『明日のパスタはアルデンテ』は〈ゲイ〉をテーマに扱っているが、面白いなと思ったのが同性愛を深刻に描かずさわやかにごく軽いタッチで描きながら異性愛をシリアスに死に比重するものとして描いている点だ。一般的には同性愛の方が重たく描かれやすいところをこの映画はさかさまに描いている
2017-06-07 12:00:37また異性愛をシリアスに描くものの、それは高齢の異性愛というシルバーの恋愛をテーマにしていたのも面白い。最後、祖母が抑圧していた欲望を解放し、正装した姿でひとり静かにありとある洋菓子をむしゃぶり続けるシーンはとても素晴らしい(糖尿病だから自 殺をしたわけだが)。
2017-06-07 12:03:22この映画は三角関係ができそうな構図をあちこちに用意しながらその三角関係を外していく。三角関係の肩すかしをくらわせる。主人公はパートナーの女の子とは友情を結び、同性の恋人と恋愛を育みながら、三人の友情関係をつくっていく。愛のカテゴリーに縛られず関係を育む明るいヒントがある気がする
2017-06-07 12:08:12最近ハードディスクの整理をしていて『狩人の夜』を観直す。ひとつひとつの明暗のコントラストが驚く程綺麗なシーンばかりでどのシーンもポストカードになりますよって感じなのだが、動く人間がほとんど不気味でとくにロバート・ミッチャムが解釈不能のこわさを出してる。ただ単に叫ぶみたいな演技とか
2017-06-07 12:18:56例えば水死体なんかはコーエン兄弟的光の中の美しさみたいに撮られる一方、殺人犯ロバート・ミッチャムが無表情で追っかけてきて時々、あー、っと叫ぶ。リリアン・ギッシュもショットガンを持って歌うしなんだかこの映画、構図によく入る動物も人間も生きてるものがすごく不気味で死ぬと綺麗になる映画
2017-06-07 12:22:15人から「溝口健二の『近松物語』みたいな死に方するんじゃないかと思ったんですよ」と言われて「え、いやだよ」と思ったが、そう言えば溝口健二の映画って〈巻き込まれ型〉が多いんだなあと思う(『雨月物語』『山椒大夫』)。巻き込まれるが、巻き込まれてるのを感じさせない距離感が溝口な気もする
2017-06-07 12:28:47で、なんで溝口映画は巻き込まれてるのに巻き込まれてない感が出るのかというと、(記憶で書くけれど)バストショットや顔のアップ、眼や瞳などをほとんど意図的に撮らないからなんじゃないかと思う。要は人物の内面の焦燥や決意がわからず、構図で判断するしかないからではないか
2017-06-07 12:31:15カサヴェテス『ミニー&モスコウィッツ』を観てたのだが、カサベテス映画の面白さは次の瞬間、登場人物がどうなってるか、何を言い出すのかわからない緊張感にあると思う(もちろんいつもカメラも不安定)。つまりカサヴェテスは映画にキャラクター=一貫するパーソナリティを持ち込まなかったと言える
2017-06-08 00:31:36その意味で、大柄でうつろな眼のジーナ・ローランズや眼が狂気のカサヴェテス自身はカサヴェテス映画によく似合っていて(義眼のピーター・フォークも)、物語が進むと安定したキャラクターが形成されるどころか、どんどんパーソナリティが分裂し崩壊し、発話や身振りが微分化されてゆくのだ。
2017-06-08 00:33:51私はカサヴェテス映画でどんどんジーナ・ローランズが家族の中でこわれてゆく『こわれゆく女』が好きなのだが、大事なことはカサヴェテスが〈こわれる女〉というキャラクターを描こうとしたのではなく、映画の中でキャラクターが崩壊しちぎれ漂っていくさまを描いていくところにある。映画ってなんだ?
2017-06-08 00:35:38カサヴェテスは意外なことにキアロスタミに少し似ていて、キアロスタミもキャラクターというものを映画内で生成しようとはしない。キアロスタミ映画ではキャラクターを作れるようなケッテイテキなアクションを人物たちはここぞという時に回避する。彼らの映画ではアクションは物語に貢献しないのだ
2017-06-08 00:37:14「ほろびる時はほろびてもいいんじゃないですか」という人がいて、意外なことを言いますねと眼をまじまじとみた事があるが、その時私は内田百閒が友人の芥川龍之介の死を書いた言葉を思い出した。「芥川君が自 殺した夏は大変な暑さで余り暑いので死んでしまつたのだと考へ又それでいいのだと思つた」
2017-06-08 00:40:31映画のなかでひとが〈こわれる〉ということは、〈こわれるキャラクター〉を演じることなのではなく、映画という物語が、こわれていく役者の身体に最後まで〈ぎりぎり〉追いつけなかった、ということなのではないだろうか。映画が追いつけなかった人の崩壊。それをカサヴェテスはやっているような気がす
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