依田信蕃と岩尾城@6/11

依田信蕃講演会まとめと信蕃討死の地・岩尾城。
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日光81 @nikko81_fsi

依田信蕃のおべんきょーヽ(・∀・)ノ pic.twitter.com/dWL3Ak2LHG

2017-06-11 13:01:39
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日光81 @nikko81_fsi

依田信蕃。この人物にフォーカスしてお話を聴く、というのはなかなか珍しい。まず芦田依田氏を穴山武田氏を例に上げたご説明。穴山梅雪も強く武田氏を意識した人物だけに、その類比から「依田」を全面に推していく依田信蕃を理解をするのがおもしろいな、と。

2017-06-11 19:44:41
日光81 @nikko81_fsi

佐久にあっていち早く武田に降った芦田依田氏。一番最初に降るという賭けに出たのでしょうか。真田と同じくその賭けは当たった・・・ハイリスク、ハイリターンの結果が真田に次ぐ150騎という規模の兵力を認められるに到ったのだろうかと想像。

2017-06-11 19:48:14
日光81 @nikko81_fsi

依田VS伴野。所領争いから訴訟沙汰に、そして信玄親裁までに到る大事。その訴訟の場がどうも岩村田(岩村田城)であったらしいということ。岩村田、北高全祝のいる龍雲寺もあるし、佐久にあって軍事拠点は内山城だけど、内政の中心は岩村田だったのかなぁ。

2017-06-11 19:50:58
日光81 @nikko81_fsi

で、伴野と依田の仲の悪さがここから始まっただけでなく、天正壬午でもこのいがみ合いが尾を引くってのが興味深い。所領の恨みはおそろしい、か。

2017-06-11 19:52:05
日光81 @nikko81_fsi

依田の活躍で紹介されたのは、勝頼信豊がうりゃあぁぁと攻め寄せた蒲原城攻めのあとの信守・信蕃の在城、東美濃岩村城在城、遠江二俣城在城。真田もそうだけど(岩櫃城将)、甲斐衆を付けられず、先方衆単独で前線の守備を任される信頼の厚い先方衆。真田があるからあぁ、って思うけど異例なんだよね。

2017-06-11 19:56:48
日光81 @nikko81_fsi

信蕃って、勝頼の二つ下、昌幸の一つ下。さすがに人質から近習まで取り立てられる異常な(笑)真田ほどではないけど、三方原に信玄旗本として参陣してるってことは、信玄本人からもそれなりに評価はされてはいたんだろうか。

2017-06-11 20:01:08
日光81 @nikko81_fsi

それにしても甲府ではなく、少し佐久から離れた諏訪高嶋城に人質ってことは、真田とは扱いの差はあるよな、という感じはある。官途は右衛門佐、のち受領名常陸介(常陸は親王任国)これ、信勝元服に合わせて一斉に官途→受領に名乗りを変えているアレですかね。

2017-06-11 20:04:38
日光81 @nikko81_fsi

信蕃の具体的なお話が出てくるのは、長篠敗戦後。当時二俣城に父・信守とともに在城した信蕃、父の死もものともせず、長篠の勢いに乗じて二俣城に攻めかかる徳川軍に頑強に抵抗、補給路である犬居城との連絡を絶たれても尚抵抗をやめず、勝頼の許しを得ずに開城などありえぬと。

2017-06-11 20:44:31
日光81 @nikko81_fsi

しかし、どうにも持ちこたえられず、勝頼の許しを得た上で開城。雨が降ったことで見苦しくならないよう、1日開城を延期して徳川家臣・大久保忠世に二俣城を引き渡したという。昌幸ならおもいっきしだまし討ち(第二次上田合戦の偽りの投稿のように)につかいそうだww

2017-06-11 20:47:01
日光81 @nikko81_fsi

たぶんこういう人材、すっごい家康ウケすると思うんだよな。家康にも依田信蕃という名前が強く記憶に残ったのかもしれない。昌幸と違った意味で記憶に残る武田の将・・・さらに二俣開城後も高天神、田中と武田の要衝の守備を任される。その間、御館の乱では越後まで従軍。働いてるなぁ・・・

2017-06-11 20:52:11
日光81 @nikko81_fsi

信蕃、高天神城が開城した後も頑強に田中城を守備。穴山梅雪の説得で降伏するもついぞ落城はさせなかった。武田氏滅亡後、家康に認められ本領佐久へ帰還・・・が、帰られていない可能性も。織田方から信蕃に出頭命令、これに飛脚を送り身を隠せ、処刑されるぞと匿う家康。

2017-06-11 20:56:15
日光81 @nikko81_fsi

実直に見える信蕃にとって、ここまで身の安全を気遣う家康に、武田亡き今これからは徳川だと思ったとしても不思議じゃないな、という流れ。そして本能寺の変直後、家康は信蕃に武田遺臣の懐柔を命じる。そして信蕃に応じる武田遺臣。

2017-06-11 21:01:23
日光81 @nikko81_fsi

曾根昌世も武田遺臣懐柔に関わってたような気がするけど、なんとなく信蕃の人となりに応じた面も考えたくなる。そして、昌幸調略。真田丸のようにもちろん真田信尹も関わっていたわけだけど、信蕃ルートと二方向からの調略だったとか。家康から宛がわれた佐久を昌幸に譲るとまで提案…

2017-06-11 21:05:59
日光81 @nikko81_fsi

当時は、当初家康に付いていた遺臣がどんぞん北条方に内通して、徳川方についていた依田信蕃は孤立。屋代秀正から調略の手が伸びるが信蕃はどうやら拒否。徳川方もなんとか支援したいが北条に遮られうまくいかず・・・これを打開するためのウルトラCがこの昌幸調略。そりゃぁもう必死だよな・・・

2017-06-11 21:18:10
日光81 @nikko81_fsi

こうして真田昌幸が説得してからの徳川方への転じたことで、依田信蕃と武田遺臣、そして昌幸たちが連動して補給路を絶ち、形勢が再び徳川に傾くと北条に靡いた国衆らが再び徳川につく・・・ということで、佐久では北条重臣の大道寺政繁@小諸城、大井氏@岩尾城、相木氏などしかなくなる。

2017-06-11 21:32:07
日光81 @nikko81_fsi

この状況で徳川・北条が和睦。徳川は甲斐信濃、北条は上野と決められたことで、上野では真田がこだわる沼田問題が起こるのだけども、佐久に限ればこの残った北条方の掃討作戦に出られる状況になったわけで、信蕃としては昌幸を徳川に引き入れ苦しい状況から脱し、これからだという転機が訪れた…

2017-06-11 21:35:23
日光81 @nikko81_fsi

軍議で、わが依田の軍勢のみで岩尾城を攻め落とすという信蕃。しかし、なかなかこれが頑強で落ちないのだ・・・・焦った信蕃と弟信幸、先頭を切って突撃。三の丸まで達するも二の丸へ侵入する土塁で鉄砲で狙撃され、信幸は当日討死、信蕃も翌日討死・・・家康は深く悼んだとか。

2017-06-11 21:38:22
日光81 @nikko81_fsi

大言を吐いたことで責任を感じてそうだよなぁ・・・信蕃のここまでの行動をみてるとね。でも・・・焦ったらあかん・・百歩譲って弟に先陣を切らせるならまだしも、貴殿は行ってはならぬ・・・大将自ら・・・ということですっごく辛い気持ちになりました・・・

2017-06-11 21:40:03
日光81 @nikko81_fsi

家康はその子を召抱え、康の字を与え(康国、康政)さらに松平姓まで与えているという・・・その後諸事あり改易されるも、福井藩松平氏に召抱えられることに。ここにはあの真田信綱の系統も拾われていて、何の因果か・・・・と不思議な気持ちになります。

2017-06-11 21:42:07
日光81 @nikko81_fsi

信蕃が長生きすれば、真田があそこまで飛躍できなかったかもしれない、依田が大名として(改易されずに)残っていれば、もっと徳川で重く用いられるに値する直接の功績を残した信蕃ももう少し顕彰されただろうし・・・とお話がありましたがいろんなifが頭をめぐりますね。

2017-06-11 21:46:50
日光81 @nikko81_fsi

さてさて。平山先生は、信蕃を真田丸に登場させられなかったというのが残念とおっしゃっていましたが、これだけ武田時代、天正壬午とドラマチックに輝いた人物だからものすごいその感覚がわかる一方で、真田丸「だから」登場させられなかったというのも、すごくわかる気がしたんです。

2017-06-11 21:48:34
日光81 @nikko81_fsi

ほんとにね、真田丸の登場人物と見せ所が被るんですよ。昌幸を味方に引き入れるところは信尹と、北条の補給路を絶つところは昌幸と。そして天正壬午が終息しこれから新しい時代が・・・という直前で討死するから、その先で活かせない。なるべく登場人物を絞る方針が見受けられる真田丸には厳しい…

2017-06-11 21:51:10
日光81 @nikko81_fsi

だけど、この天正壬午がしっかり描かれたからこそ、注目が集まって、描けなかった人を語る場ができたのだ・・・と思うと、よかったのかもしれないですね。しかし、依田信蕃は昌幸の徳川離反を知らないのよね・・・あれだけ交渉した昌幸が(沼田問題があったとはいえ)離反したのをどう思うだろうか。

2017-06-11 21:53:40
日光81 @nikko81_fsi

信蕃が昌幸の徳川離反を止めに奔走したりしただろうか。あまり知らないだけに、なんだかいろんな想像を掻き立てられる、そんなお話でした。毎度毎度おもしろいお話をありがとうございます、平山先生。

2017-06-11 21:54:48