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公孫瓚:三国志の序盤を彩る北の勇将

三国志の序盤で活躍する公孫瓚の一生を「三国志」「後漢書」を追いながら解説します。烏丸族との戦いを生き甲斐にした公孫瓚は烏丸族を味方にした袁紹に滅ぼされることになりました。
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おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
公孫瓚は遼西郡令支県出身。侯太守に気に入られてその娘をめとる。つまり公孫瓚の正妻は侯氏。侯氏のその後は記述が無いようだが易京落城時に公孫瓚が姉妹妻子を殺したとあり、長生きしていたとしても公孫瓚と運命を共にしたと思われます。また易京で文書を吊り下げて授受した側室もいたようです。
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公孫瓚の家は代々郡の太守を務めた名門の家柄でしたが、本人の母親が貧しい身分であったため郡の門下書佐(書記官)というあまり身分の高くない地位に就いた。ただし後に盧植の元で学んでいるのできちんとした教育は受けていたのでしょう。
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侯太守により盧植の元で学ぶ機会を得、洛陽郊外の緱氏にて経書を学びます。この時に同門の劉備とは面識ができたのでしょう。また劉寛にも学んだようです。
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公孫瓚は容貌が美しく、声が大きく、弁舌さわやかで、理路整然と物事を説明したので太守に気に入られたとあります。声が大きいのは軍隊の指揮には必要なこと。頭も良くてイケメンと若いころは言うことなしの優秀な人材だったようです。
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盧植の元から戻ると遼西郡の上計吏となります。上司の劉太守が罪を得て日南郡(ベトナム)に流刑が決まると公孫瓚も洛陽に上り北芒山で先祖を祭り太守と日南へついていくと報告します。当時南方に行くということは風土病等の危険が多く、その覚悟と忠義に人々は涙しました。
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結局劉太守が許されて日南には行かず、遼西郡に戻ります。この後、公孫瓚は孝廉に推挙され、遼東属国の長史となります。孝廉に挙げられるのは40歳前後が通常ですので140年~150年台半ばがおおよその公孫瓚の成年ではないかと推測できます。161年生まれの劉備より一回りくらい上になります。
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遼東属国は遼東半島の西側の付け根あたりに位置します。「属国」とは辺境の異民族が多い地域に配置される場合がある郡相当の組織で、長史は郡でいう丞に相当します。遼東属国のNo.2格の地位にあったと考えればよいでしょうか。
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あるとき数十騎で辺境の砦を回っていると数百騎の鮮卑族に遭遇し、空の建物に隠れました。部下に「いま突破しなくては皆殺しになる」と矛を持って突撃し、半数の味方は死傷したものの敵を数十人殺して脱出できました。これにより鮮卑族は公孫瓚を恐れるようになったといいます。
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次に涿県の県令となります。秩禄は長史の六百石から県令の一千石への増加であり、涿県は劉備や張飛だけでなく盧植や劉放などの人材も輩出し人口も多い重要な県でもあり栄転です。
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185年、涼州で辺章らの反乱がおきると車騎将軍の張温が討伐にあたります。公孫瓚は代理の指揮官として幽州の烏丸族の騎兵(突騎)三千を率いて涼州に向かいます。ところが与えるべき軍糧が不足して軍は離散してしまいました。
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187年6月、元の中山相の張純と元泰山太守の張挙が烏丸族の丘力居らと反乱を起こし、護烏丸校尉や右北平太守を殺害します。張挙は天子、張純は弥天将軍安定王を名乗り遼西郡の肥如に駐屯しました。公孫瓚は手元の兵で張純らを破り騎都尉に昇進します。
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ところが烏丸族の蘇僕延らが冀州河間郡、渤海郡・青州平原郡に侵入するなど戦乱は続きます。188年9月には中郎将の孟益の下で張純らと戦い、遼東属国の石門でこれを破ります。ところが補給が続かずに遼西郡の管子城で二百日あまり包囲され糧食尽きて決戦を挑むも破れちりぢりになって帰還します。
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公孫瓚は中郎将に昇進し、元の遼東属国長史として引き続き辺境で戦い続けますが、これまで見てきたように反乱を完全に治めることはできず烏丸・鮮卑の侵入を許していました。このころ幽州牧には劉虞が赴任してきており、異民族とは融和路線で臨むようになりました。
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劉虞は以前にも幽州刺史として異民族と友好的に接しており、赴任すると烏丸・鮮卑に張純の首を求めました。戦いを続けてきた公孫瓚はこれを妨害して異民族側の使者を殺したりしましたが、劉虞は他の兵を退いて公孫瓚のみを右北平郡に駐屯させ、結局張純は食客に殺されて反乱は治まりました。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
公孫瓚は劉虞の管轄下にありながら、異民族と融和して荒廃した幽州を立て直す政策を進めたい劉虞の方針に反して異民族と戦い続けるために自分の軍を強化し、部下に好き放題やらせるため、劉虞と公孫瓚の対立は深まっていくのでした。この状況の中、洛陽では董卓が政権を握りつつありました。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
董卓が政権を握ると劉虞を大司馬、公孫瓉を奮武将軍・薊侯とします。これは三国志公孫瓉伝による記載ですが、後漢書公孫瓉伝では191年11月に冀州に侵入した黄巾を討った功績によるとあります。190年から4年間に渡る袁紹との闘いについては三国志と後漢書で矛盾があり考察を加えてみます。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
190年1月、袁紹らが董卓を討つために立ち上がりますが公孫瓉も劉虞も当初は関わっている形跡がありません。3月には献帝は長安に遷されますが董卓軍は洛陽に踏み止まります。董卓は劉虞を太傅に任命して長安に召喚しますが、使者は戦乱で劉虞の元にたどり着けなかったと後漢書劉虞伝にあります。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
袁紹と韓馥は董卓が擁する長安の献帝を認めるのではなく、皇室の遠戚で人望の高い劉虞を帝位に即けようと画策し、劉虞と折衝を続けます。後漢書劉虞伝によると191年にこれを断り、長安に田疇、鮮于銀を使者として送ります。おそらく袁紹らの企てを断り朝廷に忠義を見せる必要もあったのでしょう。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
献帝は当時長安にいた劉虞の息子劉和を内密で劉虞の元に送り、軍勢を率いて洛陽に迎えに来るよう命じます。ところが劉和は南陽にいた袁術に引き留められ、袁術は劉虞に兵を送るよう伝えます。劉虞は数千の騎兵を送ることにします。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
公孫瓉は袁術が本気で長安にから献帝を迎える気がないと思っており反対しますが劉虞には聞き入れられません。かといって袁術の心象がこのままでは悪くなってしまうので、自分も一千の騎兵を従弟の公孫越に付けて袁術の元に送り、劉虞の騎兵も奪うよう命じます。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
同じ頃、袁紹に協力していた韓馥は冀州で人心を得ていく袁紹が自分のことが邪魔になり排除されるのではと不安になり、後方担当として送るべき軍糧の量を減らすなどしていました。袁紹側でもこれを恨み、韓馥から離反した麹義を受け入れるなどしていました。ここで袁紹の参謀の逢紀が策謀を進言します。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
逢紀曰く「大事を成すには州に割拠して自立しなくてはなりません。冀州は強力ですが韓馥は臆病者です。密かに公孫瓉に冀州を攻めさせれば韓馥は恐れるでしょう。このときに弁の立つ者を韓馥に送って冀州を譲るよう説得すればよいでしょう。」三国演義にも出てくる有名な策略です。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
公孫瓉は袁紹からのこの提案を受けて董卓討伐を名目として冀州に攻め込み、安平郡で韓馥の軍を破ります。逢紀の策略通り、韓馥は袁紹に冀州を譲ることになり、袁紹は豊かで軍も強力な冀州を手に入れることができました。これが三国志武帝記によると191年7月のことです。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
おそらく劉虞擁立がとん挫した191年初頭に袁紹は冀州を奪う方向性に変更し韓馥との関係が悪化、同時期に劉虞は長安とやり取りを行って騎兵を送ろうとし、公孫瓉は冀州への軍事行動を起こしつつ公孫越を袁術の元に送ったのでしょう。これらが191年の前半の出来事なのかと思います。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝 @osacchi_basstrb
後漢書公孫瓉伝では191年11月に冀州に侵入した青州・徐州の黄巾を破り、その後に公孫越を袁術に送ったが袁紹の送った豫洲刺史の周昕と戦って戦死したので激怒して磐河に進軍して192年2月に界橋で袁紹に敗れた流れになっていますが、公孫越派遣に関する期間が僅か3か月と少々無理があります。
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コメント

ぱっち @g2919119 2017-06-21 07:09:10
びみょーに使いずらいステイタスの弓騎兵、ひたすら乱射させてた(三国志戦記1の思い出
ぱっち @g2919119 2017-06-21 07:09:33
また三国志の知識が増えた!ありがとうございました。
おさっち/織風斎@三国志武将列伝1209三国志群雄太守県令勢力図(上)発売 @osacchi_basstrb 2017-06-21 20:05:31
ありがとうございます!当時の騎兵の主力武器は弓なので弓騎兵という設定はぴったりですね。
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