蘆名家の忠臣、盛氏の近習だった大庭常次

2
三浦介 @miurano_suke

蘆名盛氏の近習と言えば今思い浮かぶのは大庭常次。

2016-07-22 21:43:00
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 「大庭家文書」によると、大庭常次は若年より7年間、蘆名盛氏の側近く仕えて寵愛を受けた。長じてからは家督となった盛隆に従い、天正7年6月晦日、書置を残して出陣。残念ながら父親と妻、一人娘を残し25歳で討死してしまう。

2016-07-23 10:50:51
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata その書置には、自身討死した場合は妻を実家へ返すことや、形見分けについての他、 「此度盛隆様御供申候、何事候共御さきに罷立、御奉公可申と存候、自然なにゝも罷成候ハゝ、しよたいすなはちあけ御申可被成候、とてもとてもあとハ相立申ましく候」 とある。

2016-07-23 10:55:44
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 覚悟といじらしさに溢れている。気に入られたのも尤もと言えようか。

2016-07-23 10:56:17
三浦介 @miurano_suke

大庭常次討死を受けて、蘆名盛氏が恐らく常次父の肥後守に送った書状も感情が溢れていて盛氏の人柄が窺える。

2016-07-23 20:48:52
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 「申ことく、今度靫負尉方ことに如斯打死、弔意不及申候、併老子七年昼夕召使不便、亦ハ用所共申付心安候処、如此成行、老後之苦労、其身ふうふに歎をとらす候、乍去もう首生死ノ流転不及是非候、尤兄弟親類とても無之候間、一跡断絶事一入浅敷存候(続く)

2016-07-23 20:50:30
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata (承前)書置候物共、只今一入被思出、先泪まてニ候、 縦名跡無之候共、別而不便候間、一跡断絶不可申候、其上女子候上ハ、長以分別誰子成共取立可申候、老子死人の志と同意ニ取立可申候」 報せを受け、書置を見た、老境の盛氏の痛惜が伝わってくるのう…(/ _ ; )

2016-07-23 20:52:12
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata この盛氏の意を受けて家督の蘆名盛隆は「こと更彼者之事ハ於御東別而被加御不便之間」ゆえに、常次娘にしかるべき者を娶せて名跡を継がせるように命を下しましたとさ。 めでたしめでたし…とは言い難いか。

2016-07-23 21:01:15
三浦介 @miurano_suke

因みに先述の大庭常次の書置、形見分けの部分も非常に面白い。 「親ゟの一文字ノ刀、御館様へ指上可申候」と、相伝の刀を盛隆に献上したり、馬は御北様(彦姫か?)に献上したり…。そして意味が上手くとれないけれど「太鼓ノ曲物太鼓とハかねにてこしらへ候」と「太鼓」まで出てくる。

2016-07-24 13:23:24
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 他にも高橋充氏の「史料紹介『大庭文書』」(福島県立博物館紀要17)では大庭常次がどのような財産をどのような形で持っていたのかの分析を始め、常次の太鼓から盛隆の「鼓数寄」といった芸能との関連の可能性にも触れられています。ご興味の方は是非ご一読を(=゚ω゚)ノ

2016-07-24 13:25:34
三浦介 @miurano_suke

あ、あと「大庭文書」の原本は見つかっておりません。全て写しだそうです。

2016-07-24 13:40:50
三浦介 @miurano_suke

もちろん蘆名家の大庭常次の例だけでは結論できないけれど、「大庭文書」からは「近習」「馬廻」と当主の関係の、特異で深い関係性が窺えるな。 まあ家の存続よりも当主への奉公を優先するというのは大庭常次が特殊なのであろうが…

2016-07-24 13:47:33