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石巻の歴史(石巻市史)を主な種本とする、葛西晴信についての記述と時々雑考察(ちょっとだけ大崎氏)

戦国期中奥でも大きな勢力を誇った葛西氏と葛西晴信についてのツイートを話題になりそうなのを雑にまとめただけ
歴史 石巻市 東北史 葛西氏 戦国時代 大崎氏
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帆船ハッカ @kotosakikotoko
葛西晴信、いまだに『領内不安を解消しきれず奥羽仕置にも出仕せずに家を滅ぼしたボンクラ』扱いだけど、北方の諸反乱をしっかり収めて、伊達との同盟をテコに勢力圏を着実に安定させ、周囲の諸大名との関係も良好にして、と普通に良い仕事してる人よ。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
領内不安を解消しきれなかったのも奥羽仕置で家を滅ぼしたのも事実なんだけど、前者は一朝一夕に解決できるような問題じゃ無いし、その中でもそれをひとつひとつ押さえつけている方を評価した。後者についても、伊達の南奥同盟という枠組みが足枷になった部分は指摘しときたい。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
だってさー、江刺柏山富沢浜田本吉なんかの一郡を支配するような巨臣達を全て屈服させるって至難の業よ。こいつらが起こした反乱の全てを晴信のせいにするのってさすがに可哀そうっしょ。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
研究の進展が~とは方々で言われるけど、ずいぶん前に出た『石巻の歴史』の中身すらほとんど広がらずに旧来のイメージでしか語られない葛西晴信さんもそろそろ更新時期が来ても良い。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
伊達の南奥連合が成立する以前に、その北には葛西・長江・黒川によるいわば中奥同盟が形成されていて、大崎氏に対抗していた、という構図があった事はもっと推していきたい部分だったりする。奥州勢力において決して伊達だけが求心点じゃなかったんだよ、という。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
こういう同盟を形成すること自体、戦国期になっても大崎氏という家の影響力の大きさと自立性って評価していいと思うのだけれど、伊達という家の成長ぶりがやっぱり目立ってなぁ。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
大崎氏が伊達の『馬打同然之事』という従属と取れる和睦をしたのは事実だけど、その和睦が翌年初頭には破綻しているのは割と知られてない?
帆船ハッカ @kotosakikotoko
執事の機能からみた戦国期地域権力 : 奥州大崎氏における執事氏家氏の事例をめぐって ci.nii.ac.jp/naid/110000455… 大崎氏と伊達氏の和睦の破綻についてはこれが手っ取り早いかな?
帆船ハッカ @kotosakikotoko
伊達と蘆名の雌雄を決する激突だった摺上原ですが、伊達の北方の同盟者であり中奥の雄・葛西晴信も、大窪紀伊守率いる鉄砲隊200を派遣しました。戦闘に参加したかは不明ですが、大窪が政宗のそばにいたことは書状から推察されており、戦闘に参加した可能性は高い、とのこと。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
伊達氏と葛西氏は、先先代の葛西晴胤が伊達より入婿して以来、同盟国的な関係にありました。葛西晴信の代になってもその関係は続きましたが、晴信は領内の反乱鎮圧に忙殺され、大崎合戦への伊達への援軍要請も断る有様でした。天正15~16年は江刺・遠野・気仙などで連続して騒乱が発生しています。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
緩んだ同盟関係を引き締めるため、反乱がほぼ終息した天正16年半ばより、晴信は政宗に若黄鷹などを献上し、誓詞を提出するなどして伊達との関係を再強化しました。摺上原への援軍は、このような同盟修復の産物として生まれたものでした。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
こういうズブズブとすら言っていいような伊達との深い関係が、奥羽仕置の時に裏目になって出てきます。伊達の南奥連合の一翼となった葛西氏にとって、伊達家を差し置いて秀吉と接触することは、伊達家へ反旗を翻す意味にもなりかねなかったからです。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
葛西氏にとって、伊達家につきその一員として勢力拡大に努めたのは当然の成り行きでした。その結果として、奥羽仕置の対応に間に合わなかったのも、それは仕方のないことです。 葛西氏が中央の情勢に疎かったから、という事を強調するけでなく、当時の情勢が葛西氏を縛った事も忘れないでほしいかと。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
『石巻市史』2・6巻 気になった部分のメモ(葛西晴信の外交関係を中心に)
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・葛西晴信は天正10年前後に兄晴重の死に伴い家督を相続した。晴信は伊達との協力を重視し、天正10年、伊達・相馬との合戦に対して家臣を伊達の援軍として幾度か送った。だが、天正11年9月頃には気仙の元吉氏が反乱を起こし、伊達氏へ援兵を送る余裕がなくなる。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・天正15年9月、政宗は晴信との会談を計画するが、その年の暮れに葛西領磐井郡東山で反乱が勃発し未実施に終わる。天正16年2月には大崎攻めが始まり、葛西にも協力を求めるが、晴信は動けず。最上義光は天正16年7月に勝間田氏を通じて晴信に書状を送り、大崎和融のための協力を要請する。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・葛西氏が動けなかったのは、領北部の反乱の続発のためで、動けなかったのは江刺郡では天正16年に郡主江刺三河守とその家臣口内出羽守と角懸右近丞との対立が起き、遠野でも遠野孫次郎とその家臣鱒沢の間で、遠野南部の世田米氏を巻き込んで内紛が。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
気仙郡では天正11年元吉氏の反乱、翌年さらにそれに連鎖して浜田安房守が熊谷氏の所領へ侵攻し、この不安定な状況が、南部氏あての葛西家臣・常庵書状で『過半は降参し、落着のていに候』と書かれる天正16年頃まで続いた模様。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・こうした北方の混乱に対し、晴信は南部氏との協調を選び、天正16年7月に南部信直との会談を計画する。『これによれば、会談は問題の遠野の地で行うこと、遠野氏の身の振り方など、諸問題を話し合いたいことなどが示されている。』
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・北方の安定後の天正16年9月4日、政宗は葛西晴信の同盟回復のため下向、対面を求め、晴信はそれに応じて政宗に黄鷹を送った。政宗は返礼として綾織物と桶側胴を送り、さらに深谷の長江播磨守から若兄鷹が、富沢日向から黒馬が、そして再び晴信から白兄の鷹・太刀・馬が贈られる。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・この一連の鷹・馬などの進上は、伊達政宗と葛西晴信一党との臣従儀礼と考えられるものである。この時代に鷹の進上を要求するのは、通常、臣従を要求するに等しい行為とだった。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・ただ、一般的に鷹の進上は従属(臣下の礼)を誓うあかしとされているが、奥州においては、当時鷹のやり取りは必ずしも身分関係に縛られるものではなく、従属のあかしという観念の形成は、いまだ不十分の感があった。伊達・葛西同盟の実態は、基本的には対等の関係と考えるのが自然。
帆船ハッカ @kotosakikotoko
『石巻市史』2・6巻 気になった部分のメモ 続き。 ・『晴信は近隣への外征よりも、伊達氏の南奥統一運動に積極的に参加することにより、自家の政治的立場を優位にし、実力の高揚を図ったものと考えることができる』
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・『天正17年から同18年にかけて宮城県中北部および岩手県南部の諸家は、政宗を盟主として、一応の同盟状態に入』り、『天正18年崩壊の時を迎える。それは豊臣秀吉によって、南奥新秩序の否定、破壊がなされるからである。』
帆船ハッカ @kotosakikotoko
・『上洛して秀吉に服すべきや否やは、南奥諸家にとっては、いつに政宗の動静いかんにかかっていた。つまり単独の上洛は、南奥同盟よりの離脱、反伊達の立場にもつながりかねないからである。したがって諸家は、政宗の動静を見ながら、逆に政宗を通して自家の安泰を図るのである。』
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