戦国期東北の「家格」について雑駁なまとめ

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三浦介 @miurano_suke

ふむ。後北条氏の勢力拡大過程を見るに、やはり伝統的な権威を擁することで支配の正当性を得るというのはかなり重要だった感じがするな。

2016-02-11 12:45:56
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 南奥で地方を統一するような巨大勢力が伊達政宗まで現れなかったのは、彼の地には奥州探題以外の正統的な権威がなかったからかもしれない。

2016-02-11 12:47:35
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 石川郡の石川氏などは三度も居城を奪われ、一度は蘆名氏に身柄を拘束されて黒川で軟禁されながらも、周囲の石川郡主は石川氏であるという認識がかわらなかったのも、実力だけでは正当な支配者とみとめられなかった証のように思える。

2016-02-11 12:51:35
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 実力と、被支配者が受け入れやすい支配の正当性を確保することの両方が揃うことが重要だったとは言えないか。

2016-02-11 12:53:22
三浦介 @miurano_suke

そういや今更ながら、少し前に市村高男氏の「中世領主間の身分と遺構・遺物の格ー戦国期の書札礼の世界から見た若干の提言ー」(『帝京大学山梨文化財研究所 研究報告 第8集』)を読んだ。

2016-03-01 20:01:06
三浦介 @miurano_suke

これを読むと戦国時代も相変わらず強固な身分社会で、大名もそれに強く拘束されていたのがよくわかる。

2016-03-01 20:02:10
三浦介 @miurano_suke

また、南奥の石川氏が3度も居城を追われながら復帰できたり、佐竹氏がなかなか安定的に小田城を確保できず、小田天庵が復帰を諦めなかったこともわかる気がする。

2016-03-01 20:04:35
三浦介 @miurano_suke

この観点から、北関東や南奥では旧来の勢力が滅ぼされずに残ったことの説明がつきそうな気がするけど、とても素人の手には負えんな…(>_<)

2016-03-01 20:10:30
帆船ハッカ @kotosakikotoko

遠野阿曽沼は独立大名だったとされているけれども、書き方からすると葛西氏の従属扱いされていたことになる。これが葛西氏と留守氏だと葛西は一字下げの『留守殿』で対等な大名扱い。比較すると遠野阿曽沼は大名扱いされてなかったことになる。

2016-03-31 22:47:46
三浦介 @miurano_suke

@kotosakikotoko 書札礼はすごく興味そそられますよね〜。 伊達家なんかは奥州探題に補任されても、大崎氏並の書札礼は許されなかったり、複雑過ぎて…

2016-03-31 22:53:49
帆船ハッカ @kotosakikotoko

@aizuyakata 書札礼、すっごく情報が詰まっている部分ですよね。ちゃんと勉強もしなきゃなぁ、と思いつつ、正直な所ちんぷんかんぷんです。

2016-03-31 22:57:30
三浦介 @miurano_suke

@kotosakikotoko 書札礼と官途とか、家格の研究はこれからの奥羽史で非常に重要になってくる気がします。 南奥の話で恐縮ですが、伊達家の覇権確立には言われてる以上に陸奥守護と奥州探題補任という経歴が大きかったように感じますし。

2016-03-31 23:02:49
帆船ハッカ @kotosakikotoko

@aizuyakata これからもっと掘り下げられていきそうな分野ですよね>奥羽の書札礼。伊達さんの陸奥守護ってインパクト大きかったんだろうなぁ、いうのは大崎氏の面から見ても思いますし、いずれ官位官職や書札礼の部分から見えてくるものはまだまだありそうです。

2016-03-31 23:08:50
三浦介 @miurano_suke

戦国期南奥の史料見てると、蘆名が伸びてきた時の諸氏からは「何で蘆名の言うこと聞かなきゃいけねーんだよ!」的な雰囲気が感じられるのに対し、伊達家には「まあ、伊達さんが言うんじゃしょーがねーよな」みたいな空気を感じるんだよねえ。

2016-03-31 23:56:50
三浦介 @miurano_suke

蘆名盛興が死去した時、二階堂家の盛隆が養嗣子に迎えられたということは、その段階でも尚「蘆名家と二階堂家は同格」と「蘆名家の側でも」認識してたってことなのかなあ。 やはり戦国南奥はこの辺りの家格意識を無視しては整合性のある理解に辿り着けない気がする…

2016-04-04 22:50:48
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata そうなると、当時の二階堂氏も黒田基樹氏の言う「国衆」概念では捉えられないのではなかろうか? しかし規模から言うと戦国大名と呼ぶのも確かに憚られる…ここは「郡主」の明確な概念化に期待か。 その為にも「家格」問題は避けられそうもないな。 手に負えないけど…

2016-04-05 00:49:53
三浦介 @miurano_suke

なるほど。そうだとすると、蘆名への入嗣がより自然に捉えられますね。興味深い! twitter.com/nikaidoow/stat…

2016-04-19 00:02:31
武水しぎの @takemi_sigino

秀次事件の伊達家家臣起請文の名前のならび、右が上位の翻刻しか見たことない。 今まで疑問に思ってなかったけれど……現代のならびとは違うのなら、あれはなんでそんなならびなんやろ。。 twitter.com/kazumaru_cf/st…

2016-05-23 08:21:47
三浦介 @miurano_suke

@takemi_sigino 確か義広を家督に迎えるに当たって蘆名側から佐竹氏に出した起請文なんかは、左に金上、間に平田と富田(だったかな?)、右に針生で、家格上位でサンドイッチしてたりしましたね。これも不思議…。

2016-05-23 11:21:17
三浦介 @miurano_suke

ふむふむ。謹上書というのは儀礼的な場合に使われることが多く、必ずしも格の上下を示すわけではないのか。 蘆名盛氏が麾下の横田山内氏に謹上書で出してる物も内容は儀礼的だな。そしてよく見れば宛名は下り書き。一応蘆名家が上位と捉えられるか。

2016-06-04 20:23:34
三浦介 @miurano_suke

@gine_ya イケイケキャラもそうですが、個人的に輝宗は伊達歴代でも特に誇り高い感じがするので、減封や、上杉や西国大名の下に位置付けられるのが受け容れられずジタバタしたかも…なんて思ったりするのです。

2016-06-12 22:32:00
三浦介 @miurano_suke

@gine_ya ちなみに上杉氏への書状で、蘆名なんかはある時期から「山内殿」と宛てるようになるのですが、輝宗はそうしませんでした。この辺からたぶん「同格だ!」という意識が強かったと思うのです。

2016-06-12 22:34:27
仙八朗 @senpatirou

@aizuyakata @gine_ya 伊達輝宗・政宗「上杉殿」蘆名氏「山内殿」伊達成実「おい長尾」

2016-06-12 22:36:57
陣❄︎12/30東6ソ05b @gine_ya

@senpatirou @aizuyakata 最後の人誇り高いだけなので許してやってください…orz

2016-06-12 22:38:00
三浦介 @miurano_suke

そんな訳で、実効性があったとは言い難そうだが、蘆名盛隆の三浦介任官は家格上昇を達成したいという蘆名家にとっては切実な望みを含んだ目論見だったのではと思う。

2016-06-12 22:46:44