《備忘録 2011年3月16日昼から20日ごろまでの私が考えていた事》

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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月16日。事故原発が放出したかなりの濃度のプルームが通過し、雨と雪がかわるがわる降る屋外で、つまり、相当の量の放射性物質による被曝をしながら、福島県中通りと会津地方では、屋外で県立高校の合格発表会場で、交通整理をした。情けなさで、時折、傘も畳んで意図的に被曝しながら。

2017-06-28 00:25:59
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

情けなさを抱えたまま、ラジオを聴きながら、帰路に就いた。 11日の最初の大地震発生の時にできていた、国道115号山口小学校前の大きな段差も、応急ではあるけれど修復されていて、時速40kmで通過することができた。 おそらく、作業員が全力で復旧工事をしてくれたのだ。被曝も自覚せずに。

2017-06-28 00:30:47
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

私は2011年3月16日も、17日も18日も、事故原発の状況を見守っていた。自衛隊ヘリによる水の投下(散水)も、東京消防庁の特殊車両の暴徒鎮圧用放水銃による放水も。どちらも「日本政府は努力している」事を世界に示す為だったのだと今はわかる。が、それは事故状況を改善できていなかった。

2017-06-28 00:34:43
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月20日前後、私は、東京電力も日本政府も、原発事故をコントロールできていないことを「知っている」と思っていた。だから、待っていた。 政府による避難指示範囲が拡大される、という決断を。 この時点の私は、福島県知事が首相に避難指示範囲の拡大を拒絶していた事を知らなかった。

2017-06-28 00:40:54
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月14日、当時の民主党菅首相が佐藤雄平福島県知事に「子どもや妊婦だけでも県外に避難を」と打診し、佐藤県知事がその打診を拒絶した。当時の私はそれを知らなかった。しかし、その情報を組み込むと、高濃度汚染化の県立高校合格発表も、山下俊一アドバイザー招聘も、意味が理解できる。

2017-06-28 00:45:30
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

そうなるとその先に続く農耕の解禁、学校の新年度突入への準備も、ひとつながりに思えてくる。 福島県知事と県庁が目指すものは、4月からの新年度を、中通りと会津では例年通りに開始し、持続する事。それが当時の私には理解できないし、想像もできなかった。住民の生命と健康を犠牲にすることだから

2017-06-28 00:51:10
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

どこかの本の腰帯の言葉ではないけれど、私も「県庁は味方だと思っていた」のだ。私自身が、教育職ではあるけれど福島県の公務員の一人だったし。 「どこの地方政府も国家政府も住民を見捨てることがある」と頭では理解していたはずだったが、肝心の時に、それを思い出すことができなかった。

2017-06-28 00:57:06
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

そして、この時、私は更に、幾つもの事を忘れていた。 国家政府や県庁だけではなく、メディアも、「専門家」も、住民を守る以上に重視するものを持つことがある、ということを。そして、それらの存在が複雑に絡んで、私たち被害者をからめとり離さない、蜘蛛の巣のようなものを作ってしまうことも。

2017-06-28 01:06:16