隷属:自由=奴隷:主人=農村:都市=当事者:第三者という抽象的対立関係を考えたとき、次第に自由が拡大して後者が蔓延するようになるようだ。だが純粋な当事者も純粋な第三者もいない。第三者にもわずかに当事者に共感・手助けしたいと思う者があってこれに上手くお膳立てしてあげる手が必要だ。
2010-10-18 14:45:33後はなんだろ、「なぜ私がしてほしくないことを他人にもすべきでないと思うのか?」というよーな話があったっけ。私としては「私や他人というのは皆奴隷としてではなく主人として育てられたから」という感じの寓話的な応答になるわな。政治的な話に落とし過ぎかもしれんが。
2010-10-24 00:45:09つまり、私たちの社会が「奴隷制」じゃないからってことになるんだが、私たちは非奴隷制社会と奴隷制社会の両方を見渡せる立場にいるわけじゃなくて、奴隷制じゃない社会の内側から彼岸の「奴隷制社会」をみようとせざるを得ないわけやね。
2010-10-24 00:49:35だから「なんで俺らの社会は奴隷制じゃないの?」という問いに中立的に応えることはできないわけで、中国の王朝が正史を書き換えるみたいに奴隷制=悪、現在の社会=善みたいなストーリーのもとで今の社会を把握するしかないわけやね。通俗的過ぎるかもしれんけどそんな話。
2010-10-24 00:51:35何かを倒したいと思ったら自分自身がその「何か」に成らなくてはならない。奴隷制をなくせば奴隷は主人の仕事を引き受け、主人は奴隷の仕事を引き受けることになる。メディアを倒したければ自分自身もメディアの役割を分担しなければならない。官僚を支配するには官僚的にならなくてはならない。
2011-02-15 03:28:53哲学は飽くまでも主人のためにあるのであって、奴隷や狂人のための阿片ではない。しかし、或る種の阿片が「哲学」と呼ばれて奴隷や狂人の慰みになるのはよくある光景である。
2011-03-16 13:12:34そこをごまかすことなく認識した上で、果たして哲学が主人だけに独占されていてよいのかどうか、あるべき哲学のかたちとは何なのか、奴隷が哲学をなすことはそもそもできるのか、などを考えなければならない。そこをごまかしたらすべては天下り式である。
2011-03-16 13:22:00しかし、このようなことを言う私こそが或る種の人からみれば「狂人」にみえるだろう。それは逆説的な事実である。そういう意味では固定した地平などないし、問題は受け継がれた決め打ちの規則だけではなく、「運用」によってその都度解決されなければならない。
2011-03-16 13:24:40奴隷の変種である狂人は狂気が生み出す「教え」に従う。それは客観的にみれば彼女にとって不利益なのだが、それが主人にとっても(主人の「教え」と異なって)不利益であるが故に、他の奴隷たちに何かを気づかせる可能性がある。無論それは飽くまで可能性なので、平生は単なる「誰得」である。
2011-03-16 13:36:12阿片の一例はここにもある。平生は誰の得にもならぬことを繰り返す、何をやってもダメな奴隷が私が今言ったようなことを聞いて「自分にも何か可能性がある」と思い込むような類である。まあそれ自体は別に悪くもなんともない。哲学ではないというだけである。
2011-03-16 13:48:15