- simasyodes
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詳しい沖縄戦や前田高地の戦闘の内容はすでに多くの刊行物、映画、ドラマ、それに関するページにありますので割愛しますが私なりにまとめた話をに今日はします。
2017-07-22 17:09:51昭和20年2月にはすでに陣地構築などに参加していた男子学生や女子学生が現地召集となる。(「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり部隊」など)
2017-07-22 17:10:55沖縄師範学校から現地召集や志願により生徒達は戦争に参加した。そこには参考資料にもある法政大学名誉教授の言語学者外間守善(H24没)や先日亡くなった大田昌秀(県知事、参議院議員)がいた。
2017-07-22 17:11:17沖縄戦で日本軍(第32軍)の兵力は11万人だが半数は現地召集で実質の兵は5万ぐらいで一方、米軍は陸海の支援部隊まで合わせると54万人(上陸したのは18万人)である。
2017-07-22 17:11:29昭和20年4月1日に沖縄本島中部に米軍上陸、米軍は南北に沖縄本島を分断して第32軍の司令部がある首里を目指して進撃してくる。日本軍は水際防御より持久戦を選択したので上陸地点で戦闘は少なかった。
2017-07-22 17:11:57県外の戦死者は6万5千人ほどいてそのうち1万人は北海道出身者である。外間氏がいた。第二十四師団第三十二歩兵連隊は山形の部隊で北海道出身者も多かった。
2017-07-22 17:12:29前田高地が「ハクソーリッジ」と呼ばれた理由としては諸説あり、「ノコギリのように切り立った崖」(米軍は為朝岩を「針の先」ニードロロックと表現した)というのと崖が連なる丘陵が「ギザギザ」でノコギリで切った断面みたいだったからというのがある。(後に地図参照)
2017-07-22 17:14:25実際の写真(左側)と映画のシーン(右側) 資料によって実際の写真、崖頂上付近の人物がドス本人では?とあるが定かではない。 pic.twitter.com/Q42pXZQc6V
2017-07-22 17:15:01切り立った崖で攻略するには人力で登るしか手段がなく、海軍から輸送船から上陸用舟艇に移るネット(映画での縄梯子)を借りて米軍は攻撃していた。映画では登りきったところから平坦になってるが実際は少し下がってる地形だとか、為朝岩に関してはよく再現した地形だった(個人的感想)
2017-07-22 17:15:24嘉数を突破した米軍から見た当時の前田高地。NEEDLE ROCKという場所が「為朝岩」 pic.twitter.com/dS3XJgAJ9O
2017-07-22 17:16:35「為朝岩」は地元ではワカリガー(分かれ石)と呼ばれ、私は名前から(源為朝(沖縄にも渡来伝説はある)になんかいわれあるのかな?)といろいろ調べて琉球史に詳しい人物にも聞きましたが特にいわれはなく、誰が勝手に名付けていつの間にか定着した名前みたいです。
2017-07-22 17:17:52現在の前田高地周辺(Googlemapより)赤色丸が前田高地 Desmond Doss pointとあるのがだいたい映画の舞台。水色丸が現在の浦添消防署(HILL150)緑色丸が公務員住宅(HILL152)戦後の宅地造成で険しかったHILL150部分は削られてるそうな。 pic.twitter.com/W70QdLvljQ
2017-07-22 17:19:59本島中部方面から日本軍司令部がある首里へ進撃してきた米軍はここを陥して一気に首里を突きたい。前田高地は切り立った崖なので大部隊や戦車は通過できない。黒線のHILL150、152の間が通行に適していた。そのルートを確保したい米軍とここを死守したい日本軍の戦いだった。 pic.twitter.com/zpFunNn877
2017-07-22 17:20:35少し広域の地図で見ると前田高地(赤色丸)と首里(青色丸)ってめちゃめちゃ近い(3~4Km)ここが陥落すると「詰み」 pic.twitter.com/l5eNjTdYo0
2017-07-22 17:21:56ここが陥ちれば首里は危ない、日本軍も必死に抵抗。両軍数mまで接近して手榴弾をお互い「キャッチボール」するような戦闘だった。
2017-07-22 17:22:18映画「ハクソーリッジ」では主人公ドスが交代する米軍第96師団の「消耗」に衝撃を受け、そして猛烈な弾幕の中を駆け回るシーンがある。
2017-07-22 17:23:20嘉数や後のシュガーローフのように最初から防御陣地で「待ち構えていた」わけではなく、第一防衛ラインから下がってきた部隊なので弾薬は少なく、ドスが来た時期だと銃剣での白兵突撃や手榴弾の投擲が主な攻撃で米軍記録によると槍や投石で攻撃をしている。
2017-07-22 17:23:41嘉数、和宇慶、牧港などが第一防衛ラインで前田は(一応、第二防衛ラインだけど)現地を訪れる(元々浦添城趾や浦添ようどれの史跡があり整備されてる)と「缶詰壕」「カンパン壕」と呼ばれた壕跡があり、どちらかと言えば防御陣地より物資の集積地であった。
2017-07-22 17:24:05壕入口に米俵が爆風除けの土嚢代わりに天井まで渦高く積まれていた証言もあるので太平洋戦争に'付き物'の「飢餓」ではなかったみたい。(缶切りを持ってなくて食糧があるのにひもじい思いをしてる現地召集の兵を缶詰をバクバク食べる日本兵が追い払う悲しい証言もあるが)
2017-07-22 17:24:18