内藤昌豊公とその子孫・・・穴原内藤氏の由緒書について

旧主末裔・武田大膳大夫様への由緒披露と信玄・勝頼の菩提を先祖とともに弔う内藤氏のお話。
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日光81 @nikko81_fsi

内藤修理本。これまた興味深い… pic.twitter.com/FCQJhoF6pa

2017-07-30 22:01:17
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日光81 @nikko81_fsi

なかなか面白いあとで紹介。きっかけは昭和44年、ようやくまとまり本になったのが昭和61年。特に長野県南佐久郡の当時八千穂村(現・佐久穂町)の内藤氏集落のハナシ。今も内藤家の皆様ご健在なのかしら。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2017-07-30 22:50:26
日光81 @nikko81_fsi

長野県南佐久郡佐久穂町穂積穴原。ここに内藤昌秀の子孫とされる一族がお住まいらしい。養子昌月の子として昌定、昌時と続き帰納して続く。そこの内藤氏のお話。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2017-08-01 01:02:28
日光81 @nikko81_fsi

菩提寺は自成寺というところだそうだが、信玄公陣鐘があるとのお話もあるようで、信玄公時代から縁のありそうなところではあります。 zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/s… google.co.jp/maps/place/%E8…

2017-08-01 01:02:53
日光81 @nikko81_fsi

この自成寺には大正時代の大火事にも焼けずに残った位牌が。正面には「法性院殿『義』山信玄大居士、玉山龍公大禅定門」、裏面には「勝頼公 同十年三月十□□、修理介 同三亥五月二十□□」とあります。

2017-08-01 01:04:02
日光81 @nikko81_fsi

正面には(間違ってるものの)信玄公と勝頼公の戒名が刻まれ、裏面には勝頼公と修理の没年月日が記されているよう。信玄公、勝頼公、そして先祖たる修理亮昌秀を弔うご位牌なのでしょう。

2017-08-01 01:04:17
日光81 @nikko81_fsi

さて、この穴原地区の内藤氏に伝わる由緒書なる史料が三点あるらしく。内容如何の前に、由緒書きとは何かって話。内藤氏とはどういう略歴であったかを主張あるいは説明するもの、ということはその必要性があったわけだ、ということは想像に難くない。

2017-08-01 01:05:03
日光81 @nikko81_fsi

最も古い寛文三(1663)年は宛名がないようだけど、明和九(1772)年、安政六(1859)年の二通には宛名がある。その宛名にはこうある。前者には平賀御役所、武田大膳大夫様。後者には御用人玉越鎚三郎殿取次。平賀御役所とは平賀村の役所だろうが、武田大膳大夫様とは・・・・

2017-08-01 01:05:55
日光81 @nikko81_fsi

三通目の最後には「武田大膳大夫様江由緒書面差上候写、御用人玉越鎚三郎殿取次呉候」とあり…つまりはこれ、当時の武田宗家である高家武田家に向けて、かつての臣、内藤修理の末裔であることを説明する内容なのだろうと読めます。

2017-08-01 01:06:29
日光81 @nikko81_fsi

二通目の始めに「乍恐以書付奉申上候由緒之次第」とあることからも、かつての主君筋に宛てて記された様子が垣間見えたり。さて、この高家武田家の当主は?というと、前者は武田信安もしくは信明、後者は武田信典、あるいは信之に当たりますでしょうか。

2017-08-01 01:07:17
日光81 @nikko81_fsi

二通目の末文に「右者常時無格之私共由緒之儀何分奉恐入候得共此度御尋二付奉申上候処毛頭相違無御座候以上」とあって、どうやら高家武田家側からこの内藤氏の存在を聞きつけ、その詳細を尋ねたことに対する返信だといえそう。なぜ高家武田家が知りえたのか、関心を持ったのか・・・?

2017-08-01 01:07:53
日光81 @nikko81_fsi

一通目の寛文三(1663)年のものは工藤氏たる先祖が内藤氏を名乗る経緯から旗指物や属する武士団、相備衆、昌秀の男子について、誰に宛てるでもなく記録しているという印象です。

2017-08-01 01:08:41
日光81 @nikko81_fsi

二通目、三通目は旧主からのお尋ねとあって、ちょっとその書かれた当時の状況を反映しているなという印象もあっておもしろい。ひとつ、 甲州東郡御屋敷村乾徳山恵林寺ハ往古武田家御菩提所二而 只今迄先君御法事之節ハ私共方へ付届有之書状等所持仕候御廟参仕候

2017-08-01 01:09:39
日光81 @nikko81_fsi

ひとつ、甲府穴山小路信立寺 ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1… ハ往古信虎公御開基之霊地此度先君貳百年季之御法事有之、 私共由緒候ニ付書状到来仕此方ヨリ茂以使札香儀差遣申候

2017-08-01 01:10:05
日光81 @nikko81_fsi

ひとつ、私共系図之儀ハ先年紛失当時ハ無御座候得共 先君勝頼公ヨリ大和守方ヘ被成下候御状一通並先祖 太兵衛帯候刀馬手指短刀于今所持仕罷有候・・・・

2017-08-01 01:10:29
日光81 @nikko81_fsi

当時すでに系図類は失われたものの、勝頼から下された書状と昌秀の曾孫にあたる昌時所持の短刀が残っていたことという遺物が少ないながらも、恵林寺や信立寺などの法事に呼ばれ参列していて、江戸前期の武田遺臣のネットワークがしっかり残っている感じがあって、すごく興味深くて。

2017-08-01 01:12:00
日光81 @nikko81_fsi

三通目(前略) 今ニ至迄武田御三君御菩提所恵林寺景徳院法泉寺 右三ヶ寺是迄御法事之度々使札至来登山仕 御霊廟御拝礼御焼香仕候 (中略)穴原村松雲山孝順庵内藤太兵衛昌時開発之後建立仕 武田晴信公勝頼公信勝公御三君之御位牌納置香 花茶焼無台惶奉備候並先祖名之位牌同姓一同位牌立置

2017-08-01 01:12:51
日光81 @nikko81_fsi

たびたび信玄公や勝頼公の菩提を弔いに佐久から甲斐にやってきていること、穴原の内藤氏の先祖が開基した寺(自成寺とは別?同じ?)で信玄公、勝頼公、信勝公とともに自身の先祖の位牌をつくり、菩提を弔っていることが記されています。

2017-08-01 01:13:51
日光81 @nikko81_fsi

これ、ひょっとしたら恵林寺の百回忌の際の信玄廟、信玄墓にも浄財を投じ、奉加帳にもこの内藤氏のお名前があるのかもしれませんね。この由緒書、これ・・・すごく原本を見たい!という気持ちが高まります。今どなたがお持ちなのでしょう・・・・ぜひ原本を出していただきたい・・・・・!!

2017-08-01 01:14:21
日光81 @nikko81_fsi

実際に内藤昌秀の子孫かどうかその証明はさておき、その子孫を自負する内藤氏が信玄公、勝頼公を慕って菩提を弔い続けているという事実そのものが興味深いのです・・・しびれた・・・・

2017-08-01 01:16:18