武士道と忠義

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ut_ken @ut_ken

なんか「武士道は江戸時代から」という話が流れてきてますけど、もののふの道や弓矢の道なら平安時代末期や鎌倉時代からですし、江戸時代も統一体系化された武士道という規範や名前、教育がされていたわけでもなく(忠義とかの倫理教育は朱子学など)、成立は江戸時代どころか明治以降である

2017-08-10 12:01:52
ut_ken @ut_ken

武士道って江戸時代でもあくまで自力救済社会の戦闘者の規範。赤穂浪士がなぜ武士の鑑とたたえられたかというと「主人が殺し損ねた相手をあたらめてブッ殺した」「夜襲を見事に成功させた」「標的をきっちりブッ殺して首を取った」という点であって。こうした武士道は近代に向かう社会と相性が悪い

2017-08-10 12:23:09
ut_ken @ut_ken

やはり武士の鑑と称えられた長崎喧嘩騒動なんて、老武士二人が長崎で調子に乗っていた町人に道で泥を書けてしまい謝っても暴行されたので、身内を連れて報復にカチコミかけてその町人だけでなく主人まで皆殺しにした後切腹したという事件。その主人は幕府が任命した長崎の要職でしたけど幕閣まで称えた

2017-08-10 12:27:10
ut_ken @ut_ken

あと武士道での女子供の保護ですけど、赤穂浪士の討ち入りでも準備段階で「女がいても容赦なく殺せ」と確認してたなど、まず気にしてない。あくまで自力救済社会での暴力と名誉の規範。今一般にイメージされる武士道は明治以降の。

2017-08-10 12:30:14
ut_ken @ut_ken

江戸幕府は法治上はこうしたバイオレンスな武士道は都合が悪いのですけど、武家政権である以上否定しきれなかった。明治になると福沢諭吉がなどが積極的に否定する啓蒙活動をすることになる。

2017-08-10 12:33:16
ut_ken @ut_ken

@ochagashidouzo 元の話題に対してですけど、忠義(と恥)という規範だって、平安時代末期から鎌倉時代にすでにあったわけで。元の話題だと江戸時代以前はそんなのがなかったかのように語っていて。

2017-08-10 13:59:42
ut_ken @ut_ken

twitter.com/ut_ken/status/… 「江戸時代以前は忠義なんてなかった」みたいな物言いがありましたけど、ありましたから。楠木正成も江戸時代以前から人気があったわけで。ただ江戸時代は、平和な時代で安定している主君の家への忠誠が重要視されるようになったのが従来との違い

2017-08-10 14:02:13
ut_ken @ut_ken

twitter.com/ut_ken/status/… だいたい、忠義が江戸時代以前になかったら、江戸時代初期に主君が死んだら止めても殉死が続出したという問題が、何もないところから突然発生したことになる。

2017-08-10 14:03:37
ut_ken @ut_ken

twitter.com/ut_ken/status/… 戦国武将の藤堂高虎だって主君を何度もかえたというのは、あくまで死んでしかたがなかったり、ある仕えて見限ってやめたりといったので、裏切ったわけじゃないし、羽柴秀長その跡取り、徳川家康に対してはむしろかなりの忠臣だった

2017-08-10 14:06:01
ut_ken @ut_ken

twitter.com/ut_ken/status/… ちなみに赤穂浪士の忠義もメンバーによってその性格が違っていて、大石内蔵助は代々筆頭家老として仕えてきた赤穂浅野家という組織や血筋への忠義。堀部安兵衛や側用人たちは、取り立ててくれた浅野内匠頭個人への忠義。

2017-08-10 14:10:24
ut_ken @ut_ken

twitter.com/ut_ken/status/… 前者の大石だと、内匠頭の弟を担いでの家名再興運動を家老としての責任上しないといけないから討ち入りもその結果が出てからだったし、やるにしてもそれと不可分。後者の堀部や側用人たちだと後先考えずに討ち入りすればいいという考え。

2017-08-10 17:23:43
原田 実 @gishigaku

@ut_ken 山鹿素行の「士道」にしても、武士は自ら作らず耕さず、天下を治める件のみを託されたものだから、人倫に従うことで民の規範となろう、というものですから『葉隠』や近代以降の武士道とは趣が違いますな

2017-08-10 17:52:25