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2011年3月20日

Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第四章】奇跡の高度成長(1960~72) 池田内閣から佐藤内閣まで

【参考】「戦後政治史」【第一章】http://togetter.com/li/108740 【参考】「戦後政治史」【第二章】http://togetter.com/li/109443 【参考】「戦後政治史」【第三章】http://togetter.com/li/113219 【参考】「歴史【総論】」http://togetter.com/li/103350 【参考】「歴史【各論】」http://togetter.com/li/103354
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fever7777 @fever7777

東日本大震災から間もなく10日。今回の政治戦後史は、戦後の国土荒廃から復興を経て、奇跡とも言われた「高度成長」の時代になります。国民の希望が奇跡を起しました。被災者の皆さん、決して希望を捨てないよう!なお、文中は敬称を一切省略しています。

2011-03-20 11:21:31
fever7777 @fever7777

【バックナンバー】第一章→ http://bit.ly/hqlRZS  第二章→ http://bit.ly/gKoPxf  第三章→ http://bit.ly/eTJk9E

2011-03-20 11:22:17
fever7777 @fever7777

【第四章】奇跡の高度成長(1960~72) 池田内閣から佐藤内閣まで

2011-03-20 11:22:37
fever7777 @fever7777

1. 今回は池田勇人、佐藤栄作の長い時代を記す。この2人には共通点が多い。池田も佐藤も、次官まで務めたトップ官僚出身であり、ともに吉田学校(第二章参照)の中核メンバーであった。

2011-03-20 11:22:54
fever7777 @fever7777

2. 全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れ、1960年7月の自民党総裁選で池田勇人が当選、池田内閣がスタートする。池田は1925年に大蔵省に入省、1947年には僅か47歳の若さで次官にまで上り詰める。この人事には吉田茂や大蔵大臣の石橋湛山の意思が働いたと言われている

2011-03-20 11:23:26
fever7777 @fever7777

3. 1949年には自由党から総選挙に出馬、1年生議員ながら第三次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される(のち通産大臣を兼務)。第四次吉田内閣では通産大臣兼経済審議庁長官、野党時代は自由党政調会長、幹事長、石橋内閣の大蔵大臣、第二次岸内閣の国務大臣、通産大臣を歴任する。

2011-03-20 11:23:54
fever7777 @fever7777

4. 池田は経歴から分かる通り「エリート中のエリート」であり、1957年には今日でも保守本流と呼ばれる政策集団・宏池会(現在の古賀・谷垣派)を結成している。そのエリートであるが故のプライドの高さからか、池田は後世に残る失言を発している。

2011-03-20 11:24:19
fever7777 @fever7777

5. 「貧乏人は麦を食え」1950年の大蔵大臣時代、高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただされた時の答弁。1年生議員の脇の甘さからか、エリート意識からか、極めて大きな物議を醸した発言であった。

2011-03-20 11:24:43
fever7777 @fever7777

6. 「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」1952年の通産大臣時代の答弁。「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再度発言したため、翌日に不信任案が提出・可決され辞任に追い込まれてしまう。

2011-03-20 11:25:15
fever7777 @fever7777

7. とは言え、池田は後世に残る名演説も残している。政権発足早々の10月12日、日比谷公会堂で行われた自由民主党、民社党、日本社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。

2011-03-20 11:25:40
fever7777 @fever7777

8. 浅沼事件をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、「君」とよびかけ、大正15年に浅沼の友人が浅沼のことをうたった詩沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。

2011-03-20 11:26:04
fever7777 @fever7777

9. さて池田内閣は、初の女性閣僚として中山マサを厚生大臣に起用するなどで、国民人気は上々であった。池田は外交など政治的論争となりうる課題を極力避け、「国民所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。すなわち安保で倒れた岸内閣の反省を踏まえた。

2011-03-20 11:26:33
fever7777 @fever7777

10. この所得倍増策は、岩戸景気、オリンピック景気、佐藤内閣時のいざなぎ景気の大きな好景気を後押しした。企業の設備投資が旺盛となり、国民所得が増加することで消費が活性化した。この頃から国民の「中流意識」が生まれ、それは小泉政権前まで続くことになる。

2011-03-20 11:27:04
fever7777 @fever7777

11. 高度成長期には「三種の神器」「3C」といったスローガンが生まれ、太平洋戦争での災禍を忘れるほど、日本の経済的躍進は著しかった。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」という言葉が使われたが、本当に戦後のショックから国民が立ち直ったのは、高度成長の頃のことである。

2011-03-20 11:27:28
fever7777 @fever7777

12. さて、岸内閣の反省から、池田内閣は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案による。宏池会には、経済に強いブレーンが多く、名門派閥と言われた。

2011-03-20 11:28:01
fever7777 @fever7777

13. 高度経済成長により、日本の国際的地位も向上した。OECD加盟、IMF主要8条国への移行、東京オリンピック開催と新幹線開業など、池田は次々と日本の地位向上策を打ちだして行く。池田は非常にクセのある政治家であったが、徹底的に経済側面から日本の躍進を大きく牽引した。

2011-03-20 11:28:30
fever7777 @fever7777

14. 池田は東京オリンピック閉会式翌日の1964年10月25日に、癌のため退陣を表明し、佐藤栄作を後継総裁に指名する。ちょうどこの時期は、総理候補であった大野伴睦や河野一郎が相次いで死去しており、佐藤の長期政権の大きな要因ともなった。

2011-03-20 11:28:54
fever7777 @fever7777

15. 佐藤栄作は戦後最も幸運に恵まれた総理大臣である。それは、①池田が経済閣僚、総理大臣として高度経済成長の基盤を作ったこと。②河野一郎など有力なライバルが相次いで逝去したこと。③自らの造船疑惑について、指揮権発動で逮捕を免れたこと。

2011-03-20 11:29:19
fever7777 @fever7777

16. ④自らの派閥に田中角栄などの実力者を従えていたこと。などである。こういった状況で佐藤は、7年8ヶ月もの長期政権を樹立、後にノーベル平和賞まで受賞してしまう。田中角栄は佐藤について、次のように語ったことがあるという。

2011-03-20 11:29:46
fever7777 @fever7777

17. 「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」おそらく佐藤栄作ほど強運だった政治家は、類があるまい。

2011-03-20 11:30:12
fever7777 @fever7777

18. 佐藤栄作は岸信介の実弟である。佐藤も池田と同じ官僚出身であり、鉄道省に入省、運輸省の次官を経験している。次官出身の総理大臣は池田、佐藤のみであり、おそらく今後も出ることはあるまい。

2011-03-20 11:30:39
fever7777 @fever7777

19. 佐藤は1949年47歳で、自由党から出馬し衆議院議員となる。その後、建設大臣、郵政大臣、電気通信大臣、官房長官、自由党幹事長、自民党総務会長などの要職を歴任する。1964年7月には、池田勇人の三選阻止を掲げ、池田、藤山愛一郎と熾烈な総裁選を戦う。

2011-03-20 11:31:05
fever7777 @fever7777

20. この時生まれた言葉が「ニッカ、サントリー、オールドパー」と呼ばれた金銭による多数派工作である。結果は池田の辛勝であり、佐藤は冷や飯食いを覚悟したという。しかし佐藤にとって、その直後池田が病気退陣したこともあって、苦もせず次期総理に就任することになる。

2011-03-20 11:31:31
fever7777 @fever7777

21. この就任の仕方は、石橋湛山が病気退陣したのち、総裁選次点だった兄・岸信介が総裁に就任した時と、まったく同じ状況であった。因みに石橋退陣、池田退陣の時の自民党幹事長は三木武夫であった。

2011-03-20 11:32:02
fever7777 @fever7777

22. 佐藤は国民的にはあまり人気がある政治家ではなかった。「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた。佐藤はマスコミに叩かれることも多く、新聞記者との会見を拒否「テレビで国民に直接話す」などの我がままぶりであった。

2011-03-20 11:32:32
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