近現代日本の人身売買について

明治維新以降、近代化を目指す日本の中で立ち遅れた女性、子供、貧困層といった弱者たちはその身を売るしか生きるすべを持たなかった。 売春従事者に対して前借金で縛ることを禁じた売春防止法の成立は戦後も10年が過ぎた1955年であった。 なぜ日本で身売りを禁じる法律がなかなか成立しなかったのか。その経緯を追う。
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リンク www.otsukishoten.co.jp 戦後日本の人身売買 - 株式会社 大月書店 憲法と同い年 大月書店は1946年創業の出版社です。社会科学の古典・理論書に始まり、歴史・教育・社会からYA・児童書まで幅広い分野の書籍を出版しています。 4 users 20
波島想太 @ele_cat_namy

法制史学者の牧英正は「人身売買は遊女等の奉公契約から始まったものではない」「これら娼婦の雇用契約は、日本において長い歴史をもち根づよくおこなわれた人身売買問題の中の一現象であって、もろもろの社会の構造と倫理の脈絡のなかでとらえなければならない」と指摘した。

2017-08-14 15:54:13
波島想太 @ele_cat_namy

人身売買は今日に至るまでも形を変えて継続しており、その根底には人身売買が安易な貧困対策、失業対策といったセーフティネットを構成しているということがある。ボロい商売を禁止しつつ黙認すれば反社なりなんなりが出てきて仕事を世話してくれるという流れ。

2017-08-14 16:01:56

人身売買問題の顕在化

波島想太 @ele_cat_namy

1868年に制定された仮刑律で明治政府は人身売買を禁じていたが、マリア・ルーズ号事件で娼妓が事実上の人身売買であると指摘され、1872年にいわゆる芸娼妓解放令が出される。だが北海道開拓使が「北海道ノ義府県トハ比較相成難」と抵抗し、貸座敷制度を実施する。

2017-08-14 16:21:56

この辺りは前回のまとめでも触れています。

まとめ 遊女・からゆきが背負ったもの 江戸の遊郭によって高度に発達してしまった日本の売春、人身売買制度の歴史を振り返る読書実況。 ※人身売買のシステムは既にあり、売春にもその手法が使われただけという説もあります。次回はそういう本の予定です。 5863 pv 18 1
波島想太 @ele_cat_namy

この貸座敷制度が全国に導入され、芸娼妓解放令は有名無実となった。1880年に新たな刑法(今でいう旧刑法)ができたが、20才未満の者を誘拐して売ったら処罰されるが、成人は罰則がない。また子孫であれば罪が軽く、親が娘を説得して売れば「略売」でなく「和売」になりさらに刑が軽くなる。

2017-08-14 16:27:13
波島想太 @ele_cat_namy

1890年に刑法改正案が練られるも、誘拐の規定はあっても人身売買は規定がなかった。そして1900年には内務省令娼妓取締規則が交付、近代公娼制度が完成する。1901年に第四次伊藤内閣で出された刑法改正案では、父母の承諾があれば子の人身売買が許容されることになる。

2017-08-14 16:33:15

親による子売りを禁じていない

波島想太 @ele_cat_namy

禁止されたのは「海外への人身売買」であって、親が承諾する国内向けの人身売買は取り締まりの対象にならなかった。この刑法案はいくつかの修正を経て、1907年に施行された。このため娼妓のみならず工場の女工、農漁村の下働きとして前借金の名目で行われる人身売買的行為は後を絶たなかった

2017-08-14 16:36:49
波島想太 @ele_cat_namy

原敬内閣以降も刑法改正が試みられ、高橋是清は「人身及名誉ノ保護ヲ完全ニスル為改正ノ必要アルヲ認ム」などと指摘したが、誘拐を伴わない(すなわち肉親による)人身売買を取り締まることができずにいた。

2017-08-14 16:41:44
波島想太 @ele_cat_namy

(今回は「戦後日本の人身売買:藤野豊 著」より。前回の整理中ですがとりあえず)

2017-08-14 16:43:40

国際連盟への加盟

 世界は公娼廃止に向かっていたが、日本は断固として維持を主張する。直接外国と折衝する外務省は早々に公娼廃止へ転向するが、内務省は執拗に抵抗を続ける。

波島想太 @ele_cat_namy

そんなこんなで人身売買を容認していた日本政府であるが、1921(大正10)年に国際連盟で「婦人及小児ノ売買禁止ニ関スル国際条約」が調印される。これは売春目的の人身売買を国内向け、国外向けともに禁止するもので、対象は満21才未満とされた。

2017-08-15 10:17:38
波島想太 @ele_cat_namy

日本では娼妓取締規則で満18才以上の女性の売春を認め、前借金の名目で人身売買も許容していたため、年齢条項の保留と植民地、準植民地の除外を条件に調印し、1925年に批准された。 これに対して廃娼団体が年齢条項の保留は国辱などと非難し、廃娼法案を要求し続けた。

2017-08-15 10:21:13
波島想太 @ele_cat_namy

当初外務省は、公娼制度は人身売買に該当しないと主張していた。娼妓と貸座敷業者は独立しており、雇用関係にはないという理屈である(パチンコ屋の三店方式理論であるなあ)。むしろ公娼制度は婦女を非人道的扱いから守るものであるとまで言いきった。国際連盟にも公娼廃止は当分不可能と通告する。

2017-08-15 10:25:07
波島想太 @ele_cat_namy

三店方式の例を出すまでもなく、ソープランド等は今でも「男女に部屋を貸したらそこで恋愛感情を抱き性的行為に至った」という理屈だったか

2017-08-15 10:30:33
波島想太 @ele_cat_namy

そんな強硬派だった日本政府だが、1927年に年齢条項の留保を撤回、1930年に四度目の廃娼法案が提出され、これは審議未了で終わるが、この頃国際連盟の調査団がアジアに派遣されることになり、来日を前に改めて法案提出、今度は審議され、外務政務次官からも公娼は奴隷制度だとする意見が出た。

2017-08-15 10:35:39
波島想太 @ele_cat_namy

公娼制度が人身売買に当たると国際連盟から指摘されるのを恐れて廃娼に転向した外務省に対して、内務省は判断しかねるなどと曖昧であるが反対の意を唱えた。当時は世界恐慌の最中にあり、特に凶作が重なった東北の貧困は著しく、若い女性の人身売買が激化していた

2017-08-15 10:43:49

昭和初期の人身売買事情

波島想太 @ele_cat_namy

1935年に内務省は外務省から調査を求められて、「貧しい家庭を救うために違法業者に騙され身売りさせられた女性も多少はいるが、当局はちゃんと取り締まっていて、身売りの数は減っている」などと楽観的な(事実と全く異なる)見解を伝える。

2017-08-15 10:48:44
波島想太 @ele_cat_namy

だがこの時点ですでに連盟の調査は済んでいて、関東州や朝鮮も含めて人身売買が横行し、その背後に公娼制度があると結論付けていた。 確かに東北の事情は劣悪であった。1931と34年に冷害による大凶作、33年には三陸大津波の惨禍に見回れ、人身売買が激増していた。

2017-08-15 10:52:00
波島想太 @ele_cat_namy

青森地方職業紹介事務局が1935年にまとめた調査によると、1934年の時点で東北から出稼ぎに出た女子が67,784人、その内芸妓、娼婦、酌婦になったのが16,673人で約四分の一を占める。女給4,284人も実質的に同業とすれば三分の一にもなる。更に女中、女工から転業する者も多い。

2017-08-15 11:02:26
波島想太 @ele_cat_namy

どうせ醜業婦に堕ちるなら、最初から女工より前借金の多い娼妓にした方がいいと考える親もいただろう、と報告している。内務省警保局の楽観論は、同じ内務省社会局の調査で否定される。こうして内務省も人身売買の取り締まりに前向きになっていくが、刑法に罰則規定がないために実現には至っていない。

2017-08-15 11:07:34
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