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2017年8月23日

阿津賀志山

すずまる氏(@chivill63)の阿津賀志山についてのツイートをまとめました。不都合が御座いましたらご一報ください。削除いたします。
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すずまる @suzumall63

1189年8月源頼朝率いる鎌倉軍が奥州へ侵攻した。 両軍ともに2万騎余り、真っ向勝負の大激突をくりひろげたのがこの阿津賀志山である。 そもそも奥州合戦とは何故起きたのか。 1180年、20年余りに渡る平清盛一族の独占政治に不満を抱いた反勢力により平家追悼令が出される。

2017-08-21 21:30:55
すずまる @suzumall63

中心になったのはかつて武門で一流を誇っていた清和系攝津源氏の源頼政で、頼政は自己権威の及ぶ身内源氏の挙兵を促す書状を出した。 それにより散らばっていた源氏の反乱が全国に躍起する事になる。

2017-08-21 21:32:18
すずまる @suzumall63

平治の乱で罪人となって配流されていた源頼朝の元にも書状が届くが、頼朝はギリギリまで決断を伸ばす。頼政が宇治川で敗退した事で鎮圧に見えたが、清盛は先を危惧して書状を受けた源氏は全て抹殺の令を出した。 その筆頭に挙がったのが、攝津源氏と対となる河内源氏の嫡男、源頼朝である。

2017-08-21 21:34:20
すずまる @suzumall63

こうして慌しく挙兵した頼朝は、祖先が行なった策と同じく本領安堵を条件に坂東の豪族を味方に着けて平家の討伐軍を迎え打つ事になる。

2017-08-21 21:39:16
すずまる @suzumall63

この時、迎合した源氏一門は新羅三郎を祖とする甲斐源氏と宇治川で敗れた攝津源氏、そして八条院を後ろ盾とした加茂二郎を祖とする新田源氏の子息達で、この与力が頼朝を不動とする。 長らく離れていた異母弟達も頼朝に寄り添った事は河内源氏嫡男と言う立場が、強力だった事を示している。

2017-08-21 21:41:41
すずまる @suzumall63

この時、1番末の弟である源義経は奥州藤原氏の後ろ盾を持って頼朝に合流している。 しかし鎌倉軍に藤原氏からの援助があった記述は無く、藤原氏は依然と朝廷臣下として鎌倉とは一線を引いていた。

2017-08-21 21:47:44
すずまる @suzumall63

それでも義経は大大将として搦め手の指揮を執り、畿内、瀬戸内、長門と全戦全勝の転戦の末に6年に及ぶ平家追討を成し遂げている。 その後も、都の軍事総司令官として治安維持に着手し京都1000年の歴史の中で義経時代が1番平和だったと伝わる。

2017-08-21 21:49:02
すずまる @suzumall63

そんな事実から後白河院は義経を重用し、頼朝を蔑ろにする様になる。頼朝が摂関家と密着する立場だった事も要因である。 頼朝は激怒し、義経を鎌倉に入れない仕置をする。義経は取り成そうとするが響かず、京に返された後に出た源行家追討令を退ける。信頼は完全に消え、義経暗殺令を出すに至る。

2017-08-21 21:52:25
すずまる @suzumall63

義経の何が悪かったのか。 義経は言われたままの仕事をこなしていただけである。中には強引な面もあったが、それが政治を揺るがす程のものでは無い。 都が平和を取り戻した。 この一件だけでも義経の武将としての有能ぶりが伺える。義経の失態は駆け引きをしなかった所にある。

2017-08-21 21:54:10
すずまる @suzumall63

有能であるが故に重用されるのは当然であり、それにより鎌倉、頼朝との溝が出来ているのも腰越仕置で承知した筈だ。 この時、義経は官位も立場も捨てて出家を望めば良かったのかも知れない。威信無しを頼朝に見せる事が義経の最大科目だったからだ。

2017-08-21 21:56:22
すずまる @suzumall63

弟の強引な面を庇っていたのは頼朝なのだ。その意思表示だけで赦免した事だろう。 しかし義経は都に戻ると頼朝の命を蹴り、後白河院に朝臣の自分に手を出させるなと言う令旨を出させた。それを逆手に取った院側が目障りになる前に鎌倉を潰してしまおうと頼朝討伐令を出した事が決定的となる。

2017-08-21 22:03:50
すずまる @suzumall63

この時の奥州は一貫して朝廷側にあり、頼朝から鎌倉経由で貢物を送る様催促されても無視している。 頼朝討伐は九州に渡れなかった義経が吉野に逃げ込む失態に終わる。それにより鎌倉の寺社荘園の干渉を招き後白河院の政策基盤を揺るがす危機になり、義経討伐令が出される事になる。

2017-08-21 22:08:09
すずまる @suzumall63

そして義経は庇護を求めて奥州へ。 この時の当主秀衡は、奥州と共に朝廷側にあるべきを約束させて義経を受け入れる。 後白河院も奥州が離れない為に頼朝に和解を求めるが院に信用度は無く、私闘として義経追討を続行する。 頼朝はあくまで身内間の問題であると強調して奥州恐喝を繰り返す。

2017-08-21 22:11:36
すずまる @suzumall63

リスクを背負ってまで義経を匿う奥州の意図は何処にあるのか。 そもそも藤原氏繁栄の基盤を築いたのは後三年の役による内乱であり、当時陸奥守であった源義家の助力による所が大きい。陸奥守の代理領人と言うお墨付きで今に至るのだから、その子孫にあたる頼朝が直接主家となるのだ。

2017-08-21 22:13:54
すずまる @suzumall63

しかしその河内源氏も衰退しており、秀衡の代で陸奥守と鎮守府将軍に任命された所で対等の立場にのし上がった訳だが、継続されるものでは無い。 秀衡が亡くなればまたやり直さなければならなくなり、鎌倉に武家基盤を作られると鎮守府将軍の立場は不要になり藤原氏の是非が揺らぐ事になる。

2017-08-21 22:20:49
すずまる @suzumall63

つまり朝臣という対面を保つ事が奥州藤原氏の生き残る術なのだ。 秀衡には藤原北家の血を汲む泰衡をどうしても嫡子に置かなければならない理由がここにある。 義経が逃れて来た時分、秀衡は既に床に伏しがちで情勢は前記した通りの微妙なものであった。

2017-08-21 22:26:29
すずまる @suzumall63

それに加えて、嫡子問題では庶長子である国衡に家人の人望が偏っていた。母親は藤原氏歴代家老の佐藤氏の娘とも言われ、藤原家人は朝臣をそこまで称賛していなかった事が伺える。

2017-08-21 22:28:51
すずまる @suzumall63

また貴公子然とした泰衡とは違い、武勇肌の国衡は義経と相性が良かったと見え、義経が頼朝の元に寄る時には家人の佐藤継信忠信兄弟を着けている。これは母方の一族だとすれば疑問は無い。

2017-08-21 22:30:49
すずまる @suzumall63

秀衡は兄弟の仲立ちを義経に期待した様だ。 義経を大大将として鎌倉と戦う様にと遺言したのは、間接的に朝臣藤原家を守る秘策である。 この時、鎌倉攻撃に備えて築かれたのが、阿津賀志防塁である。

2017-08-21 22:31:43
すずまる @suzumall63

頼朝が奥州を挑発し続けたのは何故か。 奥州が朝臣藤原氏を存続させたい理由とほぼ同じである。 頼朝が鎌倉に留まる事で規律と平等を強化し無駄な争いを許さない法的機関は坂東に安定をもたらす。朝廷から離れている事で、貴族の小競り合いにも参加しないで済む様になる。

2017-08-22 01:49:22
すずまる @suzumall63

その思想は藤原氏が奥州に築いた黄金の都に影響を受けた感が伺える。 理想郷は東国に2つと要らなく、また、頼朝に敵対する義経を掲げる藤原氏とは相見えない間柄になるのは必然である。 義経を引き渡さなけれれば攻め入る。

2017-08-22 01:50:45
すずまる @suzumall63

秀衡が亡くなるとその要求は激しくなり、泰衡はとうとう屈服して義経を高舘に自害させる。義経の首を鎌倉に送ると、今度は義経を殺した事が悪いと鎌倉の奥州侵攻を許してしまう。

2017-08-22 01:51:38
すずまる @suzumall63

泰衡は無能だったのか。 泰衡は決して愚鈍では無い。義経自害にまで至るにはそれまでの壮絶な身内争いが要因である。 泰衡の敵は国衡だけでは無かった。寧ろ母親の一族以外は敵であり、祖母からして泰衡の家督相続を良く思っていなかった様だ。

2017-08-22 01:52:40
すずまる @suzumall63

泰衡は一族の中で誰よりも父秀衡の意志を継いでいたとみえ、鎌倉にも朝廷にも従順かつ柔和に接しながら押領使として管領の地位も取得した。 鎌倉には義経の所在をうやむやと引き伸ばし、朝廷には貢物を欠かさずその間にセッセと阿津賀志山防塁を作っていたのだ。

2017-08-22 01:54:20
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