@gontaaya さんによる考察【「 #おんな城主直虎 」小野但馬守政次と能楽】

高橋一生さんは小野政次を演じる上で能面を意識したと言います。それはチーフ演出である渡辺一貴氏の「鶴(政次の幼名)には能面を背負わせたい」とのアイデアからとのこと。(なお第33回「嫌われ政次の一生」第34回「隠し港の龍雲丸」第35回「蘇えりし者たち」の演出は渡辺氏によるもの。)政次と能楽、この考察を読むと、ドラマの見え方がまた変わり、深まります。
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  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-02 04:55:35
    Tweetの川は眺めているだけで楽しい 色とりどりの帆を掲げて進む言葉の舟をみるのはすてきで 話しかけたくても緊張してできないけれど語らいを読むのは楽しくて 最近は8月の灼け焦げた石に一しずく水をかけたり かなしみから生まれた言葉をひとつふたつ置いていくアカウントになっています
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-02 04:58:12
    見るもの聞くものにつけて考察をこそ申し奉らめと思い立った大河ドラマは「平清盛」です。 時は流れても #平清盛 が好きなことに全く変わりはないです。 ここで生まれたものがいま新たな花を咲かせていることを実感しています。 この制作陣とこれを見届けたわたしたちの目に狂いはなかった。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-02 05:07:11
    「真田丸」も熱心に見ていました。でも言葉は揮発して手元に残らなかったのです。「おんな城主直虎」も、今までは本編、感想と絵を見ているだけで満ち足りていました。 けれど8月20日と27日、深い深い痛みを感じてそこから立ち直れずにいます。 この心のえぐられかたは「平清盛」に似ています。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-02 05:19:40
    親しいひとが旅先で亡くなり、もう葬儀も済ませたと連絡が来る。この空虚さ。 あのひとはもういないと思うことで死を認識するしかない。 とすれば、いないと思わなければ、いないことにはならない。いると思えば、いる。 #おんな城主直虎 第34回の次郎の姿は、とても切実に感じられたのでした。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:00:02
    政次の最期を見て、堀川城の惨劇を目にし、心身のバランスがおかしくなってきました。あれからずっと、世阿弥の『風姿花伝』『花鏡』に没頭して、少し正気を取り戻せました。世阿弥の言葉を読むと、中世に生きたひとの心と奥底で繋がっていることが感じられます。世阿弥の言葉に、政次を感じられます。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:00:40
    例によってまたとりとめもないことを長々と書いてみようと思います。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:01:56
    画面の向こうにあるかもしれないことに想像を巡らせ、脚本と演出と俳優さんの演技のすきまをイメージで埋め尽くして、虚構の政次を引き寄せようとする営みです。弔ってもらえてないのがかなしい。きちんと彼の人生を総括したい。政次の人生を形に残したい、近くに感じたい、そう思っての文章です。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:04:47
    「おんな城主直虎」小野但馬守政次と能楽 室町時代の武士階級における能楽の影響をふまえて、世阿弥の花伝書にみられる演劇論を政次の生き方に関連づけて考察する。 本文は『世阿弥 禅竹』(日本思想大系24 岩波書店 1974年)により、適宜表記を改めた。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:08:02
    能面が小野但馬守政次の人物造型の小道具だったことは、ただ彼が能面をつけて素顔を見せないことを表しているというだけではなく、その身の処し方や行動の指針、最期の選択まで、政次の生き方を貫く根本的な原理のひとつとして「能楽」の思想があることを象徴している気がする。 #おんな城主直虎
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:09:40
    能は世阿弥らの専門集団によって発展したが、15世紀後半~16世紀には武士自らが能を舞うようになった。こうした演能は、大名家では家臣から主君へ、諸大名から室町幕府将軍への奉献という性格を持ち、武士必須の教養となっていった。 ※参考(repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/1011…)
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:10:13
    今川義元は、世阿弥の系譜に連なる越智観世十郎大夫(駿河十郎大夫)を庇護していた。この十郎大夫は人質時代の家康に能の稽古をつけており、のちに世阿弥の伝書を献上している。能を愛好した今川館では家臣達も能の稽古に励んでいたものと思われる。 shizuoka-cci.or.jp/assets/files/S…
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:11:27
    今川館では政次も一差し舞えと命じられたり、師に付いて稽古していたのではないかと想像する。政次が舞う姿を見たかった。世阿弥の花伝書は子孫だけに伝えられた秘伝なので直接読むことはないが、その教えをかみ砕いたものを教わる可能性はあるし、能を学ぶ中でその教えを体得していったことだろう。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:12:56
    なぜ能楽を学ぶか。型を学ぶなかで、軸を据えることを身体に記憶させ、呼吸の仕方、力の入れ方抜き方、起居動作の振る舞い方、空間における存在のあり方、視線はいつどこでどう向けるか、身体と心の一致、すなわち自分が「見られている」という常の心構えとして意識し臨機応変に対処できる身体を培う。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:15:18
    能の演者が常に観客に見られているように、武士もまた「見られる」存在である。その場にふさわしい身の処し方が求められる。武家の子の教育として、書物を読ませ、弓馬を訓練させると同時に、身体意識を鍛えるため能楽を学ばせた。だから、能の教えと武家としての行動指針には重なり合うところが多い。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 10:15:49
    能は観客に見られることで成り立つ。「見られている」という宿命を背負い、自分の身体を観客に全て曝し、最も理想的な姿を自分の身体を以て見せる。世阿弥の時代、能の演者は他の座と立ち合い、生き残りを賭けて芸の勝負をした。政次の一生は、まさしく能の演者として立ち合い続けた一生だったと思う。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:11:19
    能の基本は「物真似」。自分以外の何者かに似せる。女、老人、物狂い、法師、修羅、神、鬼、唐事。これらの役は面をつけて演じるが、「直面」現実に生きている男性の役は素顔で演じる。 この「直面」の演技は、ことさら表情を作らず、振舞いや風情を似せていかねばならないので特に難しい(風姿花伝)
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:14:31
    直親の企みが露見した後、寿桂尼に選択を迫られた政次は、「いずれ自分と同じことをする」という父の遺言を教えとして、亡き父の物真似を始めたのだろう。今川と井伊の双方に自分が「見られている」ということを常に意識し、「今川の忠臣」という難役を、面をつけず直面で演じ始めた。#おんな城主直虎
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:16:00
    政次の前半生は本当に孤独で苦しい思いで、今川には裏切りを疑われつづけ井伊には忌み嫌われ双方から冷ややかなまなざしで自分が「見られている」ことを常に意識しながら、その衆人環視の舞台でたったひとり、生き残るための立ち合いの「能」を演じ続けていて、とてつもなく切ない。 #おんな城主直虎
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:18:08
    「我をうまく使え、我もそなたをうまく使う」と宣言して、おとわが「城主井伊直虎」として政次と共に生き残りを賭けた立ち合いに加わることとなる。直虎と囲碁を打ちながら語りあう空間と時間は、楽屋でもあり舞台でもあり、複数の役を往来し、即興の芸を打ち合うことを政次は楽しんでいたように思う。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:19:01
    しかし「初心の人、習ひもせで似すれば、心も身も七分になる也」(花鏡)とあるように、父のようになりたくないと思っていた政次が今さら父の物真似をしても、その物真似は七分止まりで、寿桂尼のような優れた目利きにはとても敵わない。早々に、なつ、南渓、直虎、井伊谷の人々にまで見破られていた。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:25:33
    「一切の似せ事をよく似すれば、よそ目に危き所なし。危からぬは強きなり」(風姿花伝) 一切の物真似を徹底して身につければ、安心して見ていられる。それすなわち強さ。 「くだらぬぞ、但馬」という言葉は役に徹しきれなかった自らへの怒り。彼の物真似には、この時まだ何かが足りなかったのだ。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:27:19
    「色々の物真似は作り物なり。これを持つ物は心なり。 この心をば人に見ゆべからず。もしもし見えば操りの糸の見えんが如し。 返す返す心を糸にして、人に知らせずして、万能をつなぐべし」(花鏡) 演技は操り人形の作り物、これを動かす糸は演者の心。 この心の糸を決して人に見せてはいけない。
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 14:28:13
    「但馬」を演じきれなかったために寿桂尼に見破られ井伊の危機を招き、近藤の恨みも買う。しかしそのような政次だからこそ直虎も信じられたのであり、心の糸を知られないようにしても知られてしまう、それほど彼は優しくて、人恋しいひとだった。その心があふれてしまったのだと思う。#おんな城主直虎
  • ごんたあや @gontaaya 2017-09-03 16:41:29
    #おんな城主直虎 には、敵かと思えば実は味方という「実ハ」、偽首や首実検などの歌舞伎的な演出が指摘されている。それに加え、「死者」の描写には能の演出も意識的に用いられていると思う。回想シーンにとどまらず、死んだとしてもその人がまだそこに佇んでいるような強い存在感を醸し出している。

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