イマヌエル・カント『実践理性批判』読書メモ集
- arishima_takeo
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『実践理性批判』読み始めたわけだが、アレだな、「ところで」とか「ところが」とか使いすぎだな、ところところってお前は所ジョージか。
2017-10-10 10:26:20要は、認識論では理性に従っていると神がどうとか死後の世界とかヤバイところまで行っちゃうからリミッターかける必要があるんだけど、道徳論だと理性のままに従わなきゃいけない(し、従える!)ってことだと思うんだが、それがなんでなんだか簡単な言葉で説明しろって言われたらムズイよね、カント。
2017-10-11 17:40:27認識論では自由は外界の因果律に縛られているけど道徳論だと自由な意志の出所で処理できからセーフ、みたいなふうにいえばいいのかな?
2017-10-11 17:45:27「法の精神は、法則に服従する心意にあるのであって行為(その原理がどのようなものであるにせよ)が単に法則に適っていること、すなわち適法性にあるのではない」(カント『実践理性批判』)。この心意って熊野訳で「心根」って訳されてるやつ?
2017-10-11 17:54:57後悔を不合理であると言い切ったのは、プリーストリである、彼はあくまで一徹な、正真正銘の宿命論者であった。彼のこういう率直さにかんがみると、彼はほかの道徳学者たちよりも遥かに賞賛に値いする学者であったことがわかる。byカント『実践理性批判』
2017-10-12 10:57:30「神の原因性は、物の実在について言えば、時間に関してすら条件付きでなければならない、するとこの場合に神の無限性と非依存性という概念を否定するさまざまな矛盾が雲集することは必至である」(『実践理性批判』)。この雲集って原語なんだろ。カッコイイし使い勝手よさそうだな。俺も使おうかな。
2017-10-12 11:01:12カントのいう「浄福(Seligkeit)」ってイマイチなのこといってんだか分からんな。幸福のバージョンアップみたいなもんか?
2017-10-12 18:24:32「浄福とは、理性がこの世界における一切の偶然的原因にかかわりのない円満具足せる幸福を表現する語」(カント『実践理性批判』)。やっぱ幸福のバージョンアップだった。
2017-10-12 19:52:49学が知慧への道を保証するという目的を達成するのは、学が完成したのちに初めて確信し得ることである。byカント『実践理性批判』
2017-10-14 13:46:10「理性の使用は、足の使用と異なり、ただ反覆使用したところで、おのずからその使用法が手に入るわけではない、まして理性の使用が、普通の経験においては、我々に直接に示されないような特性に関しては尚さらである」(カント『実践理性批判』)。なんで足なんだろ、手でもいーじゃん。
2017-10-14 13:48:39カント『実践理性批判』読了。おかげさまで三批判書すべて読み終えましたけど、三つの中じゃこれが一番読みやすいんじゃないかな、別に面白くはないけど。アレだよね、遊びがないというか、少なくとも純理にはあった文学的な文体が消えて坦々とパズル解いてる感じだよね。あと十年は再読しないだろう。
2017-10-14 13:51:03