今もある官軍藩優遇、佐幕賊軍藩蔑視俗説
これはひどい。間違いだらけである。この方は旗本と藩を混同したり(厳然たる差別が有ります)、若松県(明治9年まで存在)を知らないのもひどいが、弘前藩は途中から新政府側について1万石加増されているほど。それから、俗説は昭和になってから言われたもので根拠はない。 twitter.com/99mina_jeju/st…
2017-10-14 13:17:16大名と旗本の違い(ダイジェスト)
福島藩板倉家三万石を「旗本」という人がいるとは驚きだ。旗本(交代寄合)から維新時に高直しで藩主になったわけでもないぞ。附家老でもない。
2017-10-14 13:23:45江戸時代の藩について誤解が多いので連ツイします。藩、すなわち大名であるための絶対条件は、2つの例外を除き「領地の石高1万石以上」「陪臣ではない」ということです。旗本は加増されない限り大名になれません。9500石の横田筑後守家は断じて大名ではないのです。
2017-10-14 13:32:19藩が分社化して1万石を切った場合はどうなるのか?結論から言えば「全員旗本扱い」になります。「九十三歳の弓大将」として知られる大島光義の関藩は相続時に4人の息子に分知して廃藩。柳生藩も剣豪・柳生宗矩の相続時に分知して一旦廃藩、又十郎宗冬の時に加増され復活しています twitter.com/tyuusyo/status…
2017-10-14 13:38:48柳生藩はみんな有名人ですから細かく書くと、柳生宗矩(12500石)の没時に、いきていた息子3名に分知します。長男・柳生十兵衛三厳(8300石)、三男・又十郎宗冬(4000石)、四男・柳生列(烈)堂(200石)。列堂が少ないのはこの人は坊さんで寺領扱いだからです。次男は既に死亡 twitter.com/tyuusyo/status…
2017-10-14 13:44:48この後十兵衛三厳が没した時に、宗冬は1万石に復帰して柳生藩が再興されています。十兵衛に男の子がいれば藩にならなかったかもしれませんが、二人共女の子でしたので順当に宗冬が継いでいます。合計すると減封ですが、江戸時代はよくあることです。実を捨てて名を取ったのでしょう twitter.com/tyuusyo/status…
2017-10-14 13:47:131万石以下で大名扱いなのは喜連川藩と松前藩だけです。喜連川藩は足利将軍家の末裔で特例でこの扱い。領地は五千石ですが格式は十万石。松前藩は蝦夷地で、米が取れなかったので「客臣・無高・蝦夷島主」という扱い。この2家は大名扱いか旗本扱いか微妙なところなのです。
2017-10-14 14:11:56「熊石町史」に、「松前家の如く蝦夷地の支配権を認める文言をもって無高の大名に格付したことは、関東足利氏の末裔喜連川家を五千石で大名格付したのと全く異例の扱いであった。」とあるように、この両家は特例と言うのはかなり有名な話です
2017-10-14 14:19:11ところが松前藩は天和年間になんと旗本格下げの憂き目を見ます。これは「嶋夷(アイヌ)の酋長ともいうへきものにて、我が国の大名に比例しがたき故」という人種差別的な理由からでした。時の将軍・綱吉が朱子学を重んじたせいでしょうか。藩主がアイヌ民族衣装を着て参府したりしていたのは事実ですが
2017-10-14 14:23:14松前藩が大名に復活したのは享保の改革のときでした。享保4年に7000石扱いから1万石扱いに転じています。興味深いのはこれまで松前藩主はアヌの酋長と同格で儀礼をしていたのが、この時期に藩主のほうがえらくなり、酋長が地下で礼をするようになっていることです。レイシズムなんでしょうか
2017-10-14 14:32:12「当初は(元禄期ころまで)は、アイヌの族長たちを賓客あしらいをして、大広間に対等に並び、土産を交換し、久濶を叙すオムシャの儀式が酒宴の形で行われたものである。」
2017-10-14 14:34:00「これが近世中期以降になって、このウイマム、オムシャの儀式を領主への服従の儀式に変化させて行き、領主は座敷内にあって、アイヌの族長達はその下方の土間に蓆を敷き、そこに座して礼拜し、ここで形式的には全く服従を表すように変化して行く。」(以上・熊石町史)
2017-10-14 14:34:21あの俗説、だいたい宮武外骨のせい
@hatimaki_kuroda 宮武外骨は「静岡藩は明治政府が作った藩だからいいんだよ!」と強弁していますね…それを言ったら藩は全部そうだよ…藩知事を任命したんだから
2017-10-14 15:13:30ほーこの話が昭和以降の説というのは初耳。おもしろーい twitter.com/tyuusyo/status…
2017-10-14 14:34:21