東南アジアをポイントにした海洋帝国の変遷(後編)~アルマダ海戦以後のオランダイギリス~

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kakifly @kakifly

さ、世界史ポストの続きでもしましょーかね

2009-11-27 01:29:17
kakifly @kakifly

テーマは東南アジアをポイントにした海洋帝国の変遷みたいな話で、昨日の明け方にポルトガル海洋帝国とイスパニアについて前編としてポストしました。ログはふぁぼったーでふぁぼされてたので参考にどぞ。

2009-11-27 01:34:56
kakifly @kakifly

今日は後編でアルマダ海戦以後のオランダイギリスがテーマです。

2009-11-27 01:35:41
kakifly @kakifly

スペインに反乱を起こしていたオランダは、スペインの貿易制限、船舶拿捕で経済的圧迫に苦しんでおり、さらにポルトガルのスペインの併合によりポルトガルのリスボンルート等からの香辛料入手も困難になる。スペインや併合後ポルトガルに対抗するために独自でアジア交易ルートを切り開く必要に迫られた

2009-11-27 01:37:29
kakifly @kakifly

1595年、オランダがジャワ島バンテンへ4隻の船団を派遣し、この成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。オランダの商社は競うように東南アジアに進出したため買付価格が高騰し、販売価格は下落した。そこで複数商社をまとめ、オランダ東インド会社を発足させてアジア貿易の利益を守る体制を作った。

2009-11-27 01:48:11
kakifly @kakifly

1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに世界の海への進出を開始したが、私掠や探検が中心だった。イギリスはレヴァント会社という地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。

2009-11-27 02:10:45
kakifly @kakifly

しかし、得意先であったオランダのバンテン船団派遣の成功により直接アジア貿易ルートを切り開くと北海での自らの独占が崩れることを怖れ、1600年、レヴァント会社を中心とした航海ごとに資金を出資するイギリス東インド会社を発足、翌年に東南アジアに4隻の船団を派遣して海外交易に乗り出した。

2009-11-27 02:19:50
kakifly @kakifly

以後、イギリスとオランダは東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返す。ジャワ島のバンテンに英は1602年、蘭は1603年、日本の平戸に英は1613年、蘭は1609年に商館を設置した。アルマダ海戦後の英蘭のアジア交易の熾烈な進出競争により、洋上覇権はこれら両国に移っていった。

2009-11-27 02:33:07
kakifly @kakifly

日本は1543年のポルトガル船の種子島漂着、鉄砲伝来。1577年に倭寇討伐によりマカオの居住権を得て拠点にしてポルトガルと活発に交易するようになる。スペインはポルトガルに遅れてメキシコ~マニラ経由の太平洋航路を開拓して交易するようになる。信長秀吉は南蛮交易を推奨した。

2009-11-27 02:49:50
kakifly @kakifly

家康はポルトガルの勢力を考慮し、スペインとの積極交易を図り、両者を牽制してバランスを図ろうと考える。京都の商人田中勝介をメキシコに派遣、ポルトガルの生糸交易の独占を防ぐため、京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させる。また占領政策の一環である布教を恐れ、キリスト教は禁止した。

2009-11-27 02:57:30
kakifly @kakifly

日本の主要輸出品は銀で、輸入品は鉄砲火薬、中国産の生糸絹織物が中心だった。鉄砲は輸入品に自国生産品も加わり、当時は世界屈指の保有量であった。また当時世界の3分の1の銀の産出量を誇り、中でも石見銀山は世界的に有名。日本産銀の大量流出は、新大陸産の銀とともに西欧に価格革命をもたらした

2009-11-27 03:16:11
kakifly @kakifly

価格革命は、欧州の社会構造を一変させた。新大陸・日本産の銀の流入により欧州の銀貨が下落。大幅なインフレをもたらした。これにより商工業が好況に沸き、発展するが、固定地代収入頼みの封建領主貴族は没落していき、封建社会が崩壊していった。代わりに商工業で富を蓄えた商人が力をつけていった。

2009-11-27 03:24:17
kakifly @kakifly

西欧は商工業が発展したが、東欧は西欧の穀物供給地としてむしろ農奴制が強化されて農奴領主制として一層封建色を強めていった。また中世以来、東方貿易で栄えた北イタリアの大商業資本や陸路交易で繁栄した南ドイツのアウグスブルク銀山を有したフッガー家は、価格革命による巨額損失で没落していった

2009-11-27 03:40:05
kakifly @kakifly

西欧のほうが近代化が早く進んで海外に積極進出したのに対してドイツやロシアなどの東欧やイタリアの近代化が遅れたのは価格革命の影響が大きな要因となっている。

2009-11-27 03:44:04
kakifly @kakifly

さて話を英蘭のアジア交易競争に戻す。オランダは1619年ジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおけるオランダ東インド会社の本拠地とした。1606年にスペインが香料諸島のテルナテ王国のスルタンをマニラに移送して占拠してたが、1607年にはオランダも進出、一部占拠した

2009-11-27 04:04:32
kakifly @kakifly

モルッカ諸島のもう1つの重要な島であるアンボン島であるが、ポルトガル勢を駆逐したオランダが1605年砦を築き、支配権を確立していた。しかし、1615年にはイギリスも進出して競争が激化。1619年には香辛料貿易の協定まで交わしたが、オランダ勢はこれを無視して強引な取引を進める。

2009-11-27 04:11:04
kakifly @kakifly

日本は秀吉以降朱印船貿易を始め、特に海外交易に熱心であった家康は、オランダ人航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧問として採用、シャムやスペイン領マニラ等東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を結び、交易した。これにより浪人やキリスト教禁教により日本人がマニラや東南アジアに進出する

2009-11-27 04:21:47
kakifly @kakifly

日本人は東南アジア各地に日本人町をつくり、戦国で実戦経験豊富な日本人傭兵として現地で雇用されていった。中でも有名なのが、山田長政で日本人傭兵としてアユタヤ朝の国王の信任を得て官位を賜り、アユタヤ日本人町の頭領として活躍していた。

2009-11-27 04:31:42
kakifly @kakifly

モルッカ諸島のアンボン島では英蘭の確執は深まっていたが、ついに1623年、オランダが日本人傭兵を使ってイギリス商館を襲い、商館員を全員惨殺するアンボイナ事件を起こす。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫してオランダが利益を独占。イギリスが東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向ける

2009-11-27 04:42:35
kakifly @kakifly

世界史的にはイギリスのアジア進出の大きな転換点となる重要な事件なんだけど、東南アジアの重要度を理解してない歴史学者が多いせいかわからないけども教科書的受験的には非常にマイナー事件として扱われてる。でも世界を知る上では非常に重要だし、日本人が関与してるのも面白い。当時も意外と国際的

2009-11-27 04:48:28
kakifly @kakifly

もう一度読む山川世界史なんか読んでもこのようなグローバルな東西の世界の動きが網羅できようはずもない。勉強するならばこのように世界をグローバルに捉えて横のつながりを意識して因果関係を把握しながら世界の過去を知ることで世界史的視点から今を知ることができる。これが本当の世界史の面白さ。

2009-11-27 04:54:39
kakifly @kakifly

アンボイナ事件以後、1624年オランダは領主不在だった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。またスペインポルトガルのカトリック布教後に伴う占領を警戒した江戸幕府に懐柔し、これらを追い出して鎖国下で唯一長崎出島での交易を認められる。こうしてオランダが東南アジア・東アジア交易を独占した

2009-11-27 05:10:37
kakifly @kakifly

家康は当初イスパニアとの積極交易によりポルトガルと牽制させてバランスをとろうとしたが、西欧諸国の東アジアへの進出、カトリック布教後の占領による警戒、戦国時代や秀吉の朝鮮出兵による疲弊、航海技術や銃火器の技術格差等を総合的に勘案して海外交易や進出よりも国力温存が妥当と最終的に判断。

2009-11-27 05:20:50
kakifly @kakifly

信長が南蛮交易を行う国際感覚に優れた人物、秀吉は朝鮮出兵を失敗させる国際情勢に疎い人物、家康は鎖国政策に導いた同じく国際感覚に鈍い人物のように誤解する人が多いが、無学と言わざるをえない。家康は国際感覚に優れていたからこそ国力充実させ体制を維持して海外侵略に備える鎖国政策を採用した

2009-11-27 05:36:24