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春日局の生涯をまとめてみた

江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥の基礎を築いた春日局の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1643年10月26日(寛永20年9月14日)江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母 春日局が亡くなりました。享年64歳。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられます。#春日局 #大奥 pic.twitter.com/TaSPEjk4BM

2017-10-26 22:47:18
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

「春日局」とは朝廷から賜った称号で、名を斎藤福といいます。実家の斎藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門でした。守護代・斎藤氏が滅びた後の斎藤家は明智氏に仕官します。 福は父・斎藤利三の所領・丹波国(現:京都府中部、兵庫県北東部など)の黒井城下館(興禅寺)で生まれました。

2017-10-27 20:48:10
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

福は城主の姫として、幼少期を過ごしていましたが「本能寺の変」が彼女の運命を大きく変えてしまいます。 父は明智光秀に従い本能寺の変で織田信長を討つのですが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、帰城後に坂本城下の近江国堅田(現:滋賀県大津市北部)で捕らえられ、処刑されます。 pic.twitter.com/o6UxVfAJey

2017-10-29 20:16:03
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福は母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城(現:岐阜県揖斐郡揖斐川町)で過ごしたといわれます。 また、母方の親戚にあたる三条西公国に養育され、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけました。

2017-10-29 20:25:57
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その後、伯父の稲葉重通の養女となり、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の後妻となります。正成は関ヶ原の戦いで家老・平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者でした。 しかし、度重なる夫の浮気で離婚を決意。家光の乳母となったのです。※諸説有 pic.twitter.com/r9OH7OFA4y

2017-10-29 21:00:31
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福には正成との間に3人の子供が居たのですが、離婚の決意は変わらなかったようです。当時の乳母とは世の女性たちの憧れの職業でした。しかも家康の孫・家光の乳母は現代の超エリート官僚にも引けを取らない職業でした。 しかし、乳母となった福を待ち受けていたのは3代将軍を巡る争いでした。

2017-10-29 21:11:56
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2代将軍秀忠とお江の方の間には、嫡男・家光(幼名・竹千代)弟の忠長(幼名・国松)が居ました。家光が病弱で内気な性格に対し、弟の忠長は丈夫で積極的な性格だったのです。 この事から、3代将軍は忠長ではないかという声が江戸城内あちこちで聞こえるようになりました。 pic.twitter.com/ZKM6e0zqoC

2017-10-29 22:21:50
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福は居ても立ってもいられず、周囲にはお伊勢参りと見せかけて駿府城(現:静岡県静岡市葵区)で隠居生活を送っていた家康に、次期将軍は家光にと直接交渉に出向いたのです。 やがて、家康から次期将軍は家光だとお墨付きをもらい、1632年(寛永9年)秀忠が没すると家光の治世が始まります。 pic.twitter.com/cYRXW4Y0xA

2017-10-29 22:50:52
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福は家光の将軍就任に伴い「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになります。時が経ち、家光が将軍として活躍する傍らで徳川将軍家の血を絶やさぬよう、家光好みの女性探しに力を注ぎ始めます。 福は、お万や・お楽・お夏などの女性たちを次々と奥入りさせました。

2017-10-29 23:31:37
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家光には多くの側室が付きます。お楽の方は4代将軍徳川家綱を産み、お夏の方は甲府宰相・徳川綱重の生母に、桂昌院(お玉)は5代将軍・綱吉の生母となります。 福の息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、1623年(元和9年)老中に就任します。 pic.twitter.com/OT6fLGYC2M

2017-10-29 23:58:02
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やがて正勝は相模国小田原藩(現:神奈川県小田原市)主になるなど、福は将軍の権威を背景に、老中をも上回る実質的な権力を握るようになります。 1629年(寛永6年)家光の疱瘡治癒祈願の為、福は伊勢神宮に参拝しそのまま上洛して御所への昇殿を図ります。 pic.twitter.com/X29v5ehTgb

2017-10-30 00:03:16
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しかし武家の斎藤家の娘の身分では御所に昇殿する資格を欠く為、血族で(福は三条西公条の玄孫)育ての親・三条西公国の養女になろうとします。 しかし既に公国が他界していた為、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組後に公卿三条西家(藤原氏)の娘となり、参内する資格を得ました。

2017-10-30 00:17:33
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1629年(寛永6年)11月24日 三条西 藤原福子として後水尾天皇や中宮和子に拝謁し従三位の位階と「春日局」の名号、天酌御盃を賜ります。 その後、1632年(寛永9年)7月20日の再上洛の際には従二位に昇叙。緋袴着用の許しを得て再度、天酌御盃を賜わります。 pic.twitter.com/lw5ImI5JbV

2017-10-30 00:38:56
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二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階になります。1634年(寛永11年)2月 正勝に38歳の若さで先立たれると、正勝に代わって幼少の孫・正則を養育します。 後に兄の斎藤利宗が後見人を務め、翌年に家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えています。 pic.twitter.com/4tY4vduVAB

2017-10-30 01:06:07
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【Togetter用加筆】春日局の息子・稲葉正勝のお墓は文京区の養源寺にも在ります。写真は2016年(平成28年)夏に参拝した時のものです。 pic.twitter.com/TKXvomDZ6e

2018-08-16 20:43:59
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稲葉正勝のお墓 (東京都文京区千駄木5-38-3 養源寺) 養源寺は臨済宗のお寺で号は白華山。春日局の子息・稲葉丹後守正勝が開基し、正勝の手習師範だった秀嶽和尚が開山となり、1607年(慶長12年)湯島天神下に創建され、明暦の大火の後にここへ移転しました。 pic.twitter.com/SO1yVabe7S

2018-08-16 20:44:01
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【Togetter用加筆】2018年8月に訪ねた神奈川県小田原市に在る長興山 紹太寺。ここには春日局と稲葉一族のお墓が在ります。

2018-08-16 19:48:36
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春日局と稲葉一族の墓所 (神奈川県小田原市入生田303 紹太寺) 紹太寺は江戸時代の初期(寛永・寛文・万治の頃)小田原藩主だった稲葉一族の菩提寺で、京都の宇治・万福寺から招かれた鉄牛和尚が開山しました。 1632年(寛永9年)3代将軍・徳川家光は自らの政権をより強固なものとする為 pic.twitter.com/MolUtjlKJu

2018-08-15 01:07:24
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側近だった幕府老中職の稲葉丹後守正勝を関東支配の鍵となる小田原城主としました。稲葉正勝の母は将軍家光の乳母を務めた春日局ですが、 正勝は入封2年後の1634年2月22日(寛永11年1月25日)38歳で急死してしまいます。家督を相続したのは若干12歳の正則でした。 pic.twitter.com/i7LejouMWn

2018-08-15 01:07:25
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本来であればお取り潰しになりかねませんでしたが、正則が春日局の孫だった事から相続が許されたのです。 1669年(寛文9年)正則は当時、城下の山角町(南町)に在った菩提寺を入生田に移転拡大し、長興山紹太寺と名付け、父母と春日局の霊を弔いました。 pic.twitter.com/6ehWmAqk3i

2018-08-15 01:07:27
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往時は七堂伽藍の整った大寺院で黄檗宗独特の広大な庭園をもち、その美しさは旅人の足をとどめずにはいられなかったと伝わります。 しかし、幕末の火災で建物が焼失し、現在では子院の清雲院が紹太寺の寺号を継承しています。山内は360段の石段を登り、数十町歩に及ぶ pic.twitter.com/b643YJ7Uez

2018-08-15 01:07:29
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鬱蒼と生い茂った樹々、清流が飛沫をあげて流れる様や、蜜柑畑の中に残された当時庭石として据えられていたと思われる苔むした巨石などが、かつての紹太寺の名残を今に伝えています。 #夏の歴史旅 pic.twitter.com/zPFqnDjJGg

2018-08-15 01:07:30
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1643年(寛永20年)10月26日 春日局は64歳でこの世を去ります。春日局は亡くなるその時まで一切薬を服用しなかったそうなのですが、それには理由がありました。 1628年(寛永5年)家光25歳の頃、疱瘡(天然痘)で容体が芳しくなかった時、春日局は東照大権現に詣でました。 pic.twitter.com/ZhjCrdZXTL

2017-10-30 01:25:27
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春日局は斎戒沐浴をして「家光公の病が治ったなら、私は病気になっても今後、薬は一切服用しません」という誓いを立てたのです。 家光の病は回復した為、春日局は家光が見舞いに訪ねて薬を飲んでほしいと懇願してもこの時の誓いを頑なに守り、一口も飲まなかったと伝わります。

2017-10-30 01:26:33
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

辞世の句「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」 ~西の方へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の道に入って(または仏の教えに従って)今日こそ煩悩の多いこの世から逃れることが出来た~ 生母・江が没した時でさえ、泣かなかった家光は号泣したといわれます。 pic.twitter.com/9rTEEhVl9M

2017-10-30 01:35:29
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