編集部イチオシ

大政奉還とそれにまつわる史跡をまとめてみた

幕末の1867年11月9日(慶応3年10月14日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が行った「大政奉還」をまとめてみました。今年は大政奉還150周年でもあります。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1867年11月9日(慶応3年10月14日)江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は京都の二条城において政権返上を明治天皇に奏上。翌15日に天皇が奏上を勅許しました。 265年の長きに渡り、続いた江戸幕府はここに終焉を迎えたのです。 #大政奉還 #徳川慶喜 #大政奉還150周年 pic.twitter.com/PizleFMrPn

2017-10-14 00:15:16
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江戸時代、徳川家将軍は日本の統治者として君臨していましたが形式的には朝廷より将軍宣下があり、幕府が政治の大権を天皇から預かっているという大政委任論も広く受け入れられていました。 幕末に朝廷は自立的な政治勢力として急浮上します。 pic.twitter.com/idcKeKRXn1

2017-10-14 01:02:43
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主に対外問題における幕府との意見の不一致で幕府権力の正統性が脅かされる中、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになります。 1863年(文久3年)4月・翌1864年(元治元年)5月にそれぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われました。

2017-10-14 01:09:19
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「大政奉還」は、それまでの朝幕の交渉で再確認された「大政」を朝廷に返上するもので江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件ですが、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していました。 同年11月19日に慶喜は将軍職辞職を朝廷に申し出ます。 pic.twitter.com/UiSlemWWCf

2017-10-14 01:21:57
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しかし辞職が勅許され、幕府の廃止が公式に宣言されるのは1868年(慶応3年)1月3日の「王政復古の大号令」においてでした。 大政奉還の目的は内戦を避け、幕府独裁制を修正し徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立する事にあったのです。

2017-10-14 18:32:39
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しかし大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派によるクーデターが起こったのです。 幕末に主に開国・通商条約締結問題を巡って国論が分裂すると、それは幕府・朝廷間の意見の不一致という形で表面化しました。 pic.twitter.com/wmVFPENPlM

2017-10-14 20:51:34
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1858年(安政5年)「戊午の密勅」が幕府を介さず水戸藩に直接下賜された事に始まり、朝廷が幕政改革や攘夷の実行を要求するなどの事態に直面します。 幕府は、朝廷と幕府の一致、すなわち公武合体の一環として大政委任の再確認・制度化を朝廷に要求するようになります。 pic.twitter.com/WTQ5FUAkPX

2017-10-14 20:59:11
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幕府の命令=朝廷の命令となす(=政令一途)事による、幕府権力の再強化が目指されたのです。 一方で、松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や・大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣は、大政奉還論(大政返上論)を早くから提唱していました。 pic.twitter.com/woqX7jrWsk

2017-10-14 21:05:44
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しかし、幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これらの主張が現実化する事はありませんでした。 1864年(元治元年)4月 参預会議の崩壊で雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、当時、将軍後見職だった一橋慶喜や幕閣との対立を深めます。 pic.twitter.com/C2DDAsKmrY

2017-10-14 21:28:20
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1867年(慶応3年)6月 切り札としていた四侯会議でも、15代将軍に就任した慶喜の政治力で無力化され、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し長州藩と共に武力倒幕路線に傾斜していきます。 このような状況の中、土佐藩藩士・後藤象二郎は坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受けます。 pic.twitter.com/FDHmHOp3hM

2017-10-14 21:42:14
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後藤は坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部の寺村道成・真辺正心・福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張します。 同年6月22日 これに薩摩藩の小松帯刀らも同意し「薩土盟約」が締結されます。 pic.twitter.com/ujppUjosed

2017-10-14 22:05:05
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これは「幕府は朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべき」としていました。 また「その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙するもの」とされていたのです。

2017-10-14 22:12:34
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大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想でしたが、薩摩藩がこれに同意したのは慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にしようとしていたのです。 その為、盟約には「土佐藩の上京出兵および将軍職・廃止を建白書に明記する」事が約束されていました。 pic.twitter.com/NBS4oQt9Tk

2017-10-14 22:23:15
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後藤はすぐに帰国し土佐藩兵を引率する予定でしたが、前藩主・山内容堂は大政奉還を藩論とする事には同意したものの、上京出兵に反対し建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除してしまいます。 薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局10月4日に薩土盟約は解消されたのです。

2017-10-14 22:28:38
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1867年(慶応3年)10月29日 土佐藩は大政奉還の建白書を16代藩主・山内豊範を通じ、単独で15代将軍・徳川慶喜に提出します。 同年11月8日 土佐藩の建白を受けた徳川慶喜は、上洛中の40藩重臣を京都・二条城に招集し、大政奉還について諮問しました。 pic.twitter.com/rOYxU0mGCu

2017-10-15 16:45:11
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摂政・二条斉敬ら朝廷上層部はこれに困惑します。 しかし、薩摩藩の小松清廉や土佐藩の後藤象二郎らの強い働きかけで、翌15日に慶喜を加え開催された朝議で勅許が決定しました。 こうして慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、ここに大政奉還が成立したのです。

2017-10-15 19:30:42
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大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、薩摩藩らの最大の関心事だった将軍職辞任には一切触れられておらず、慶喜は武家の棟梁としての地位を未だ失っていませんでした。

2017-10-15 22:10:10
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15代将軍・徳川慶喜は朝廷には政権を運営する能力も体制もなく一旦、幕府が形式的に政権を返上しても、依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば、実質的に政権を掌握し続けられると考えていたといわれます。 pic.twitter.com/6T20pvtoWh

2017-10-15 22:15:39
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見通しの通り、朝廷からは勅許にあわせて国是決定の為の諸侯会同召集までとの条件付で緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任される事になりました。 将軍職も暫時従来通りとされ、実質的に慶喜の政権掌握が続く事になったのです。 実際、朝廷は外交に関しては全く為す術が有りませんでした。

2017-10-15 22:28:38
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朝廷は慶喜に当分の間、引き続き庶政を委任し諸大名には上京を命じますが、形勢を観望する為に上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関しては何ら主体的な意思決定が出来ぬまま事態は推移します。 この中で、上京した有力大名は薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみでした。 pic.twitter.com/Mkpwz0C7Hr

2017-10-15 23:11:59
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1868年(慶応3年)1月2日 土佐の山内容堂が入京。この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向け、動いていました。 他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策だと反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開されます。

2017-10-15 23:19:34
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大政奉還上表の同日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が密かに渡されます。これには天皇による日付や裁可が未記入の詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものでした。 大政奉還が行われた時点では、倒幕派公家は朝廷内の主導権を掌握していなかったのです。 pic.twitter.com/z5tSA1hDUg

2017-10-15 23:31:37
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当時の朝廷は孝明天皇の崩御を受け、満15歳と若年の明治天皇が即位したばかりで更にそれを支えた公家たちも親幕派でした。 一方、討幕派の公家だった三条実美らは1863年(文久3年)9月に起こった「八月十八日の政変」で京都から追放されたままという状態でした。 pic.twitter.com/vaTtgcEbZC

2017-10-15 23:58:26
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この時期の朝廷は二条摂政ら親幕府派の上級公家で運営されていた為、大政奉還がなされても朝廷の下に開かれる新政府は慶喜主導になると予想されました。 薩長や岩倉ら討幕派は、まず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白など従来の体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があったのです。

2017-10-16 20:24:59
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討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、慶喜のそうした狙いに対抗する非常手段として画策したものでした。 密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還が朝廷に受け入れられた事で一旦先送りされます。 pic.twitter.com/KRwq5MWzHj

2017-10-16 20:32:17
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