- gameryouiku
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障害の概念的説明としてこれまで「医学モデル」または「社会モデル」が提唱されてきたが、こうしたモデルによる限り、療育や発達支援という教育的意図をもった営みの意義を充分に説明できず、長らくもどかしい思いをしてきた。
2017-11-10 17:45:16「医学モデル」に拠って療育を捉えるなら、その営みは「障害を治す」ことが目的となるが、現状それに成功した療育技法は存在しない。また「社会モデル」に拠るなら、障害の原因は社会の側にあるのだから療育によって障害児本人の変容を迫る行為自体がナンセンスとなる。
2017-11-10 17:50:07「医学モデル」によるなら療育は、治療を目指しながらそれを果たせないインチキな営みになってしまうし、「社会モデル」によるなら本来社会に求められるべき障害の原因を本人に転嫁する無責任な営みになる。実際、「効果の出ない療育」と「子どもに無理やり押し付ける療育」の批判はどちらも聞かれる。
2017-11-10 17:56:39だが幸いにして療育の優れた実践を見聞きし、併せて自らの実践で子どもの変化を目にしてきた私としては、この営みが障害児にとってなくてもよいとか有害であるといって切り捨てることはできない。無論、無益な療育、有害な療育というものはあろうが、それは療育の本質に起因するものではない。
2017-11-10 18:03:19療育的視点から障害の「医学モデル」「社会モデル」を見つめ直したとき、両者には二つの視点の欠落があることに気付いた。それは「人間は発達する」という視点と「障害者本人も環境を変えられる」という視点だ。
2017-11-10 18:11:18医学モデルにおいても社会モデルにおいても、障害者本人は自分の障害と自分をとりまく環境について何のアプローチもできず、ただ専門家の治療や社会の支援を待ち望むだけの無力な存在として描かれる。つまり障害者本人の能動性が閑却されているのである。
2017-11-10 18:14:14その理由は医学モデルも社会モデルも「障害」を表現するものであり、「障害とともに生きている人」を表現するものではないからだ。だが実際は多くの人が「障害」のモデルを「障害とともに生きている人」のモデルとして用いてしまう。その結果障害者本人の能動性が閑却されるのだ。 twitter.com/gameryouiku/st…
2017-11-10 18:26:19そこで私は「発達モデル」を提案しようと思う。このモデルにおいて、人間は環境との相互交渉によって発達しながら環境に適応していくダイナミックな主体である。そして障害とは、本人と環境との相互作用が機能不全に陥り、結果発達が滞って環境に適応する可能性が阻害されている状態と規定する。
2017-11-10 18:37:06「発達モデル」というと発達障害にしか適応できないように思われるかもしれないがそのようなことはない。たとえば視覚障害のある子が視覚的な情報を取り込むことができないことで言葉の発達が遅れることは充分考えられる。
2017-11-10 18:45:08この際、目を見えるようにする(医学モデル)のでもなければ、音声読み上げをする(社会モデル)のでもなく、視覚情報に頼らずとも言葉の発達が促されそれを用いて他者とコミュケーションできるような特別な教育的支援を考える(発達モデル)ことになる。
2017-11-10 18:49:44「発達モデル」についてまとまったのはとりあえずここまで。ここからピアジェの「同化」と「調整」という概念を使って発達ー適応のメカニズムを理論化していく。まとまったらまたツイートします。
2017-11-10 19:03:22すいませんさっきの一連のツイート「医学モデル」っていってましたが「医療モデル」ですね(汗)。まあ試案ですからご容赦ください。またいずれまとめます。
2017-11-10 20:41:00発達の観点が抜けると一種の「スキル主義」がはびこる。社会性がないからソーシャルスキル、読めないからリーディングスキル、怒りやすいから感情調整スキルを教えるといった具合。だけど他の子はそんなスキル教わらなくたってできるわけで、じゃあなぜその子はできないのかという視点が抜けがち。 twitter.com/gameryouiku/st…
2017-11-11 12:30:15僕はカルカソンヌより、カタンや人狼の方が初心者向けだと思ってます(コロレット)はやったことない。カルカソンヌは手続きは簡単だけど、初回プレイでは判断に要する価値(とくに草原確保の価値)が理解されにくく、先を見通しを立てられるようになるのに数回のプレイが要る。街コロなんかもそう。
2017-11-11 13:09:19初心者向けゲームの条件は、自分がどんな手段をとればどんな結果が起きるのかという因果関係がわかりやすいことです。たとえば、カタンは「相手から羊をゲットすれば、開拓地を作れて+1点」とわかりやすい。カルカソンヌは例えば草原にミープルを置いたら何点になるか想像しにくい。
2017-11-11 13:16:36今回の生徒が教員の食事に下剤入れた件といい、先日の教師の叱責により生徒が自殺した件といい、本来であれば教育現場への司法的介入が必要な事件だと思う。なぜ裁判にならないのか。まるで学校は治外法権だと言わんばかりの現状である。
2017-11-12 14:19:22体罰にしてもそうである。道端で大人が子どもを殴ったら犯罪である。親が子どもを殴ったら虐待で通報される。 ところが学校で教師が子どもをなぐったら「行き過ぎた指導があった」みたいになり、逆のケースでは生徒へ厳重注意でおわってしまう。
2017-11-12 14:20:10実業の世界では、電通の事件以来、過重労働やハラスメントで新人が自殺した場合、親が裁判に訴え出ることが一つの流れとして定着しつつある。教育の世界でも今後はそうなっていくだろうし、またそうなって行かねばならない。
2017-11-12 14:29:42僕がアナログゲーム療育でやってるのは「周りを見よう。そして理解しよう」ということ。その上で我を通すもよし、苦労して合わせるもよし、合わせらないと諦めるもよし。だけど分かってやるのと分からないでやるのとは大きく違うよ、ということ。 twitter.com/gameryouiku/st…
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