京都駅から散策開始
ちなみに、高瀬川は京都の角倉一族が開削した運河。江戸時代初期の和算書『塵劫記』を書いた吉田光由も、この角倉一族の一人。
七条から京阪電車に乗って、丸太町で下車。そこから黒谷まで、のんびり徒歩。
黒谷金戒光明寺での墓域巡り
今日、訪れたのは黒谷金戒光明寺。幕末には会津藩の京都守護職本陣が置かれていたところ。会津藩殉難者の墓所もある。 pic.twitter.com/WbcpowDShb
2017-12-05 15:12:31儒者と和算家の墓石探索
なぜここを訪ねたかと言えば、自分が研究している人物の数名分、ここにお墓があるため。最近再発見された墓石もあるという情報も得て、やって来た次第。それにしても、墓所の域内をうろうろ探して歩くだけで二時間半ぐらいかかった。相当に広大 pic.twitter.com/PTrZfsuYVX
2017-12-05 15:29:31予め調べておいた境内の略図をもとに最初に辿り着いたのが、儒学者・三宅尚斎の墓。彼は数理に長けていて、オランダの測量術も知悉していた。望遠鏡を覗いた時の印象などを記した自筆のメモを自分が持っていることもあり、私的に思い入れのある人物 pic.twitter.com/aRWHxYFndn
2017-12-05 15:36:43次は算学者の田中由真。関孝和と同時代で上方では最も優れた算学者と言ってよい人。この墓石が40年ぶりに再発見されたので、これを見たかった。それまでは無縁塔の中に埋もれて放置されていたとのこと。再び日の目を見てありがたや pic.twitter.com/CSuclBNgtV
2017-12-05 15:48:33田中由真の墓。40年近く無縁塔に埋もれていたせいか、一部の碑文が欠落して見えなくなっていた。残念。それでも、過去に記録されていた碑文の文字の幾つかが誤っていたことを確認できたのは収穫だった。 pic.twitter.com/8cqynESkyp
2017-12-05 15:51:34次に探し当てたのが、田中由真の弟子の中根元圭と息子・彦循の墓。一族の墓が隣り合っていて、墓碑の有無が確認できなかった。元圭は吉宗に招かれて改暦のための天文観測を行う。荻生徂徠との共著もあるが、実は二人は仲が悪かったらしい pic.twitter.com/27ocyzkFS0
2017-12-05 16:04:41続柄は分からないが、年代的に元圭の娘と思われる女性のお墓が隣り合っている。裏面には「中根氏女ゆふ墓」とあり、ゆふさんという方だったんだな、と初めて知った。 pic.twitter.com/15AKwuNlID
2017-12-05 16:07:09そして、今回の調査で初めて知った人物のお墓。大江権甫という本草学者で算学者だった人だが、この人名は算学者としては初めて聞いた。墓碑にも確かに「開承算法」他を著したとあるが、この和算書は違う著者の作品として伝えられている。謎が増えた pic.twitter.com/FmHVXll6ZH
2017-12-05 16:16:19色々探し回ったけれども、どうしてもお墓まで辿り着けなかったのが赤松小三郎という幕末の上田藩士。案内標柱までは見つけて、多分ここだという一画までは来たのだが、断念。恐らくこの中にあるはず。。。次回に持ち越し pic.twitter.com/XpUj5I4gRe
2017-12-05 16:24:18この赤松は上田藩士で、和算を内田五観に学び、西洋兵学も修めた人。後に薩摩藩に召し抱えられて兵学を教授したが、幕府から声がかかり、移籍しようとした矢先に京都で暗殺された。倒幕に傾いた薩摩藩からすれば、赤松は消さねばならない存在になったと推測されている。しかし墓碑は薩摩藩士の筆になる
2017-12-05 16:31:31今回下調べで参考にした本は、白嵜顕成『くろ谷金戒光明寺に眠る人びと』(思文閣出版、2013年)。境内の略図と墓石の写真、大体の位置が示されていたので非常に助かった。