「女中がいた昭和」から考える戦前頃の女性の地位について(仮題)

読みながら感想を呟いていくスタイル。本文は終了。全体的な感想はまたいずれ。 過去に読んだ本はこちら→ https://togetter.com/li/1144604
ジェンダー 女中 セルフまとめ 家政婦 女性史
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⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
【本棚登録】『女中がいた昭和 (らんぷの本)』 booklog.jp/item/1/4309727… #booklog
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大正から昭和初期というのは、西洋化など文明的には進んだが、それだけ家庭でやらなければならないことが増え、その水準も高く、日本の歴史上もっとも家事の大変だった時代とも言える。 たとえば洗濯では、江戸時代なら和装で柄物が多く、水場で足で踏みつけて洗えるし、頻度も少なかった。
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それが日露戦争頃から石鹸工業が発達し、また白い洋装が増えたために、手でもみ洗いしなければならず、洗う回数も増えた。医療も江戸までは放っておくか民間療法程度だったものが、西洋医学の導入で氷嚢を当てたり湿布や浣腸なども家庭でやるようになった。
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生活が煩雑化し、家庭内ですべきことが膨大になったこの時代に女中はいた。戦後も一部残るが昭和40年代に姿を消す。果たして女中とはどのような存在だったのか。
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江戸時代には、大名の大奥へ奉公に出ることは、たとえ大名の妻に迎えられなくとも名誉なことであった。礼儀作法や家事の教育機関とも言えた。その名残のあった明治から大正初期には複数の女中を雇う家も多く、主の妻が彼女たちを束ねて取り仕切るという位置付けだった。
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明治39年から大正10年頃まで女中は80万人ほどいて、女工よりも多かった。大正7年頃から女工の方が多くなり、一方女中は減少し昭和2年には半分の40万人くらいになった。需要はあったのだが、なり手が減ったのである。西洋思想の影響か「花嫁修行よりも月給を取って自立したい」という女性が増えたのだ。
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なにしろ女中は住み込みであり、四六時中緊張状態を強いられる。月給は安くても気楽な女工を求める者も多かった。昭和初期には職業紹介所長が「女中を募集する方は手当ての額に限らず、万事の待遇を時代に順応して考慮する必要がある」と声明を出す。ここに現代の「人手不足」の相似形が見てとれる。
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また雇う側もかつての大家族から核家族に移行しており、雇うとしても一人か二人ですべてを回さなければならなかった。「ワンオペ」は当時も敬遠されていたのである。
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戦後の女中の需要は小売業など、家事以外にも事務作業などさせようという求人が多かったが、希望者からすると家事に限定した雇用を望んでいた。ミスマッチはますます激しくなり、また女工の他電話交換手、タイプライターなど女性の選択肢も増え、いよいよなり手は減っていく。
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しかも女中は労働基準法の対象外で、「召し使い」というイメージも強かった。渋谷の職安がパートタイムの女中を始めるなどしたが、結局ギャップは解消されることなく、ホームヘルパーという通いの職業に取って変わられたのである。
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
(女中の仕事として炊事、裁縫、洗濯、掃除、その他季節の務めの紹介があるが割愛)
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(女中になった動機、待遇への希望など興味深いデータが並ぶが割愛)
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コラムとして編者小泉和子の体験談がある。正確には彼女の母で、徳川家、それも斉昭の孫、慶喜の甥である徳川武定の家に勤めていたという。主は優しく、婦人もよくしつけてくれたという。その前に勤めた家では全く指導がされず、それを不満にやめたというので、当時の女中が求めたものがうかがえる。
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(続いて女中訓。女中ではないが「この世界の片隅に」ですずのしていることがおおむね女中の仕事である。詳細は割愛)
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家の支配者は夫であるが、女中の「直属の上司」となるとやはり妻である。しかしなかなか上手くはいかなかったようで、婦人雑誌には女中に対する悩みがしばしば掲載されている。やる気や責任感が感じられず、家庭の秘密も守れない。どうしたらよいか、というのは現代でもよくある話か。
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「家事、育児」と、家庭内の仕事でも育児は別格とされるわけだが、女中として乳母を勤めるものもいた。乳母には文字通り乳を与える「乳乳母」と、乳は実母や代用乳を与え、それ以外の世話全般をする「抱乳母」がいた。
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実母の乳の出が悪い場合、庶民の家では近隣で貰い乳をしたが、少しでも裕福な家は極力乳乳母を雇った。養育量を払って乳離れまで乳母に預けることもあった。女性の仕事が少なかった時代、住み込みの乳乳母は割りのよい仕事だった。給金が普通の女中の倍以上で、良い乳を出すようにと食事も上等だった。
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「待遇がよすぎると却ってストレスになる。少しは働かせた方がいい」と医者が苦言を呈するほどであったという。我が子を里子に出して乳乳母になり、夫や他の子供たちの生活を支えた女性もいたという。
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「女中がいた昭和」から考える戦前頃の女性の地位について(仮題) - Togetter togetter.com/li/1180641 とりあえずまとめました。随時追記します。
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
昭和初期の『格差』について - Togetter togetter.com/li/308395 女中さんの続きに行く前に関連しそうなまとめ。当時はこうした格差があり、かつ「上の方の人」がそれなりに多かったので女中が成り立った。現代の格差は「ごく少数の超富裕層」なので、女中的なものを雇える人は多くない。
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
実母に代わって母乳を与える乳乳母については、「大きく垂れた乳房よりも、小さすぎず張りのある乳房がいいとか、乳量が多く盆の上に乳を落とすと玉のように転がる乳が良質である」などの条件もあった。
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
やがて育児用ミルクが進化し、他人の乳をもらうくらいなら粉ミルクで十分と言える品質を確保し、昭和34年に美智子妃殿下が「母乳と人工栄養でお子さまを育てる方針」を決めた頃に、乳乳母はほぼ消滅した。
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy
抱乳母については「子守」として年端のいかない少年少女が口べらしとして奉公に出されることも多かった。これはこれで興味深いがいつか触れた気もするのでとりあえず割愛。
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コメント

逆らわずに右へ🎌パン祭/卯月🎌 @coffeerabbit27 2019年11月7日
>22才で結婚するが、相手は出征中で、留守の家への嫁入りだった。農作業要員としての結婚で、当時は珍しくもなかった。 これ夫が戦死したらどうなるんやろ 顔も会わせず未亡人で他家に居候する形になるのか…?
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy 2019年11月8日
.coffeerabbit27 https://booklog.jp/users/electriccat/archives/1/4004150124 「あの人は帰ってこなかった」という戦争未亡人のインタビュー集があり、その中で子のない未亡人は実家に帰されることが多いとの記述がありました。
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