「#ふぁぼされる度に好きな歴史人物の話をする」タグによる天智天皇と大友皇子と持統天皇語り※じわじわ増えます

乙巳の変から始まる大化の改新で有名な中大兄皇子こと天智天皇の、律令国家へ向けての体制構築と、それを継ぐはずだった大友皇子の人となり、そしていろいろな意味で天智天皇の遺志を引き継ぐ持統天皇を語っておられましたので、まとめてみました。
天智天皇 飛鳥時代 大友皇子 持統天皇 歴史 律令国家 中大兄皇子
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1,天智天皇
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
1.天智天皇(中大兄皇子) 7世紀中葉、朝鮮三国の抗争は最終段階を迎え、唐も朝鮮半島に軍事介入するなど、東アジア情勢は激動の時代を迎えていた。倭国もこの状況に対応すべく権力集中を図り、国家体制を強化していく必要があった。その路線対立によって起きたのが乙巳の変である。→
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大臣蘇我蝦夷・入鹿父子は高句麗のように傀儡化した国王の下で権臣による専制体制を構築することで国家体制を強化しようとしたが、中大兄皇子と中臣鎌足、そして皇極女帝の弟で中大兄の叔父である軽皇子は大王家を中心とする権力集中体制を目指した。かくして乙巳の変が起きたのである。→
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従来、中大兄は乙巳の変(蘇我蝦夷・入鹿討滅事件)とその後の政治改革(所謂大化改新)の中心人物とされてきたが、実際には中大兄は乙巳の変において軍事指揮官として活躍したのみで、その後の大化改新を主導したのは軽皇子即ち孝徳天皇である→。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
乙巳の変・大化改新は中大兄皇子と中臣鎌足が主導したとする理解は未だ有力であるが、当時の大王即位資格を鑑みるに、若干20歳の中大兄が、皇極女帝の弟で自身の叔父である軽皇子を差し置いて政権を握ることは到底できない。この時期の政治は孝徳天皇が主導したと考えるべきである。→
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孝徳天皇は百済型の国王による専制体制を目指していたようだ。冠位制度や中央官制の整備は、推古朝以来の国制の延長線に位置付けられるが、朝鮮三国の制度を模倣しつつ地方行政改革を行うなど、孝徳天皇は意欲的に改革を進めていった。彼の改革の目玉は、部民制の全廃であった。→
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従来の人民支配システムを抜本的に変えようとする急進的な孝徳天皇に対して、中大兄皇子は部民制改革の必要性を認めながらも全廃には消極的な、いわば「抵抗勢力」であった。→
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その中大兄が、孝徳天皇の死後斉明女帝の下で政権を握り、白村江の戦いでの大敗を通じて、唐に倣った中央集権的律令国家体制の建設の必要性を痛感し、部民制廃止に乗り出すのは、時代の潮流でもあり、歴史の皮肉というべきか。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
中大兄が斉明女帝の下で政権を握り、女帝死後もしばらくは大王に即位しなかったのは、白村江の戦いの混乱という面もあろうが、彼が新羅型の権力集中体制即ち女王―補政者である王族有力者を権力核とする体制を志向していたからであろう。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
中大兄が白村江で戦った相手の新羅や唐を参考に政権を構築しようとしていた。実に興味深い。こういう面白さに触れることができるのが、歴史の醍醐味である。殊に、古代は東アジアの動きを意識して歴史を読み解いていくのが楽しい。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
閑話休題。斉明女帝死後、中大兄皇子は女帝―王族有力者による補佐という体制を継続させ、孝徳天皇の大后であった妹の間人皇女が大王位代行者となり、中大兄が政権を掌握した。この時期の彼は、中央集権体制の確立と防衛体制構築に腐心した。間人が亡くなると、ついに中大兄は即位を決意する。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
宮都をそれまでの飛鳥から新天地大津に移した中大兄皇子は、668年、近江大津宮において即位し、天智天皇となる。在位中、天智天皇は白村江の戦いの後の東アジア情勢を見極め、国際紛争が倭国に飛び火しないように慎重な外交判断を行った。白村江の戦いの反省を踏まえてのことである。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
国政においては、中臣鎌足の補佐を得て、律令体制構築に歩みを進めた。従来言われるような近江令は存在していなかったと私は考えるが、中臣鎌足は律令法に通じる礼儀を編纂しており、天智朝において律令国家体制の構築が志向されたのは疑いようがない。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
670年(天智天皇在位3年)、最初の全国的戸籍(庚午年籍)が作成された。中学生や高校生の教科書にも特筆されるこの事柄からも、天智朝における律令国家的中央集権体制の構築の進展が窺える。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
さらに天智天皇は、太政官制を施行して中央官制の整備にも着手した。天智朝の太政官制は最新の隋唐の律令制というよりも北周の政治制度を参考にしたらしく、孝徳朝以来の国政改革の延長線に位置付けられるようだが、中央官制の整備は、来たるべき律令国家体制の完成に資するべきものであった。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
惜しむらくは、天智天皇が太政官制を施行した671年(天智天皇在位4年)の末に崩御したことだ。歴史に「もしも」は禁物ではあるが、彼の在位があと20年も続けば、天武・持統朝とはまた違った形で律令国家体制が形成されたかもしれないと思うと、空想の翼がどうしても羽ばたいてしまう。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
天智天皇は、彼の娘の持統天皇や元明天皇によって「律令国家の初代皇帝」として顕彰される。実際には律令国家的中央集権体制の構築に着手しただけで彼の治世は終わってしまったのだが、それでも私は、新体制を草創した人物が大好きなので、天智天皇を好きな歴史人物の筆頭に掲げるのである。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
なお、天智天皇の為人であるが、乙巳の変で自ら剣を取り蘇我入鹿を斬りつけるほどの果断な性格の持ち主であり、孝徳天皇と対立した際は天皇を難波宮に置き去りにして皇極前女帝・間人大后・大海人皇子らを引き連れて飛鳥に戻り孝徳天皇を孤立させたり、自身のライバルとなる有間皇子を粛清するなど、→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
冷徹にして強烈な権力志向を有していたことが指摘できよう。また、両親の舒明天皇・皇極天皇の時代に中国からの帰国者がさかんに講座を開き、豪族子弟に新来の学問・思想を広めるという風潮の中で青春時代を過ごした天智天皇には、中国渡来の文物に親しみ、渡来文化趣味という側面もあった。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
『懐風藻』序文からは、天智天皇が漢詩文を興隆し、臣下と詩文の宴を催し、中国の伝統的な観念である「文章経国」の実現に努めていたことが伝わる。彼の朝廷では中国文化の粋たる詩文が花開いていたことであろう。中国文化に傾倒し、漢詩文に関心を寄せた天智天皇。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
彼が後継者として嘱望した長子の大友皇子、孫の葛野王や大津皇子らも学問・詩文を愛した。天智天皇の中国文化趣味は、子孫にも受け継がれたのである。→
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
勇猛果敢であり、新たな知識に対しては進取の気性に富む。そして、冷徹にして強烈な権力志向。天智天皇の為人は、彼が英主、稀代の帝王であることを示しているのである。
2,大友皇子
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
2.大友皇子 天智天皇の第一皇子で、太政大臣。奈良時代に彼の曾孫淡海三船が編纂したとされる漢詩集『懐風藻』の評伝によると、容姿は優れて逞しく立派で、振る舞いは広大で深遠。広く学識者(亡命百済人)と親交があり、博学で多くの知識に通じ、文武に秀で、群臣は畏れ服従していたという。→
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コメント

@niseusa 2018年1月1日
まとめを更新しました。
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