《「原発事故避難者の帰還に関する選択」は、固定的ではなく、変化し続けるものだ》

自己ツイートをまとめました。 「早期帰還を望む人」や「移住を望む人」と一度区分したらその後変わらない、というわけではありません。
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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

『シリーズ 被災地から未来を考える① 原発震災と避難 原子力政策の転換は可能か』(長谷川公一・山本薫子 編 有斐閣 2017年)をようやく購入。税別4200円は高額だけど、それだけの価値はある本だと考える。 社会学とこれまで無関係だった被災者には、すこし歯ごたえがあるとは思うが、オススメの本。 pic.twitter.com/4xjCZCuAVb

2017-12-22 12:59:58
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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

「原発事故被災者の選択」を語ると、 多くの場合、「元の町への帰還」と「新しい居住地への移住」に2分されてしまう。残念ながら、この本の第1章でもそう分けられている。 現実には、境目で線を引くことさえ難しい、グラデーションのようになっている。 間もなく事故発生から丸7年になる今でも。 twitter.com/karitoshi2011/…

2017-12-22 19:47:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

まずは 「可能な限り早く以前の居住地で以前と同じ生活をしたいと考える人」を仮に考えてみよう。 非常に極端で少数な例だが、そもそも「強制避難を拒否した人」が存在する。家族や知人、消防団、警察や自衛隊の呼びかけにさえも応じないで、自宅でそのままの生活を望んだ人だ。ほぼ高齢者だった。

2017-12-22 19:47:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

「強制避難を拒否した人」の多くは、そもそも原発事故発生前から、外出する事さえ少なく、近所づきあいも積極的ではなく、医療機関に通う事さえも嫌がる人達だったと聞く。家族の中でも1人か2人の限られた人に頼るか、それさえも拒否する生活だった。電気水道燃料の供給があれば満足できた人達。

2017-12-22 19:47:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

「強制避難を拒否した人」は、そのままそこで死ぬことを選んだ。死後、少数の家族が遺体を引き取り、埋葬したのだろうと思われる。(私が知っているのはごく少数の事例だから、このような表現しかできない)生前は毎日のように家族の一人が世話をするために避難指示区域外から通っていた例もある。

2017-12-22 19:47:04
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

それ以外の人達は、最低でも避難指示範囲の外までは避難した。その中でも避難指示範囲ギリギリの距離で留まろうとした人、インフラなどを考えてある程度距離を取った人、米国参照で80km以遠まで避難した人、可能な限り遠くまで移動した人、できるだけ知人の多数と行動しようとした人、等に分かれた。

2017-12-22 19:47:04
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

ここで注意してほしいことは、「避難した距離」と「可能な限り早く帰還したいという欲求の強さ」とは、直接の相関はない、ということだ。 避難するという事は、避難を受入れてくれる場所にたどり着くという事でもあるので、避難開始が遅れると避難元の近くに避難できずに、遠距離に避難した例も多い。

2017-12-22 20:13:04
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

まずは、とにかく「想定外」の20km以遠の避難で、受け入れ先に到着するところから避難生活が始まる。しかし、福島県浜通りのたった一本の幹線道路である国道6号が地震と津波で寸断され、そのう回路として重宝されていた通称「山麓線」が地震であちこち寸断されてしまい、南北への避難は困難だった。

2017-12-22 20:13:05
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

東電福島原発事故で強制避難を指示された人々の一部は、北の南相馬市鹿島区や相馬市と、南のいわき市へ避難した。しかしその先は福島県外に出てしまうので、どうしても同じ県内である西側の伊達市・福島市・二本松市・郡山市などの中通り北部中部に避難する人が多くなった。これは、道路事情の問題だ。

2017-12-22 20:13:05
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

東電福島原発事故で避難指示を受けた、福島県東側の浜通りの相馬・双葉地区(相双〈そうそう〉ちく)から阿武隈高地を超えた中通りに抜ける道路は、相馬市から福島市への国道115号、浪江町から福島市への国道115号、南相馬市から飯舘村経由で114号に合流する県道、富岡町から郡山市への国道288号が主。

2017-12-22 20:25:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

相双地区から避難指示を受けた人々は、自治体役場の指示通りに避難した人は役場が臨時庁舎を置いた自治体に避難して数が多かった。しかし、中通りや福島県外の知人や親せきを頼って避難した人たちは、とにかくそれぞれの価値観と判断によって様々な場所に移動した。自家用車なら戻るのも楽な筈だった。

2017-12-22 20:25:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

現在、原発その他の核施設から30㎞以内に住んでいる人たちには特に記憶しておいてほしいのだが、半径30kmの住民が合計1万人以上ならば、全てを移動さえることができる大型バスの確保は無理だ。自力の移動手段がない人は自治体所有のマイクロバスのピストン輸送になる。自家用車と燃料は必須だ。

2017-12-22 20:25:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

どこぞの首相は誤解しているかもしれないが、1万人以上の避難移動が可能な装備は、自衛隊には集められない。地震や津波が同時に起きているなら、特に現在の自衛隊・消防署・警察署の人員と装備では全てをカバーすることは不可能だ。なお、ヘリコプターは夜間避難輸送は不可能だと考えてほしい。

2017-12-22 20:29:43
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

原発事故で避難指示を受けて避難した原発関係者の多くは、同じ東京電力の原発がある新潟県へと避難した。作業のローテーションの関係で、福島の原発と新潟の原発との相互転勤は頻繁だった。その為、新潟で生活している時の下宿・民宿などを頼ったり、実家に帰ったりした。

2017-12-22 20:47:34
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

取り敢えず避難所に移動できた人たちは、よりマシな避難環境を求めて、移動可能な場合は再移動した。そもそも、中通りの避難所は「想定外」で臨時に開設されたもので、無計画に、自治体職員や学校の教職員によって運営が始まったものだった。その為に、避難する側も受け入れる側も手探りだった。

2017-12-22 20:47:35
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

私の職場の体育館も臨時開設避難所の一つだった。最初はとにかく、他の避難所で受け入れることができなくなった人を受入れていたようだった。少し福島市内の連携ができてくると、南相馬市からの避難者を受入れる避難所になった。徒歩数分の所には311後でも一度も休業しなかったコンビニもあった。

2017-12-22 20:47:35
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

避難所によって、利便性や避難元からの交通の便も全く条件はバラバラだった。入浴を希望する避難者には、無料で開放してくれる源泉かけ流し温泉への送迎マイクロバスが毎日出る避難所。避難所に自衛隊の入浴施設が併設されている避難所。有料で銭湯に行くしかなかった避難所。それもバラバラだった。

2017-12-22 20:47:36
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

原発事故避難で収容された避難所は、おそらく同じ条件の場所が二つとないほど、様々な様子だった。分かりやすい所では暖房設備だ。3月中旬の福島県中通りの体育館は、基本的に全体を暖房する設備が最初からないため、避難者は寒さと戦わなければならなかっただろう。ジェットヒーターがあれば上等だ。

2017-12-22 21:14:18
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

次に問題になったのは飲食物だ。ある程度保存できる飲食物の場合、遠隔地から運ばれた支援物資を収容する場所の確保と運搬手段の確立が基本の問題になった。例えば福島市の場合、福島市役所が改築されたばかりで、物資倉庫にできるスペースがあった。そこに支援物資を集め、そこから配送できた。

2017-12-22 21:14:19
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

支援物資を集めることができた福島市の場合でも、市内の避難施設の全てとそこに収容されている避難者の人数が把握できず、配送がうまくいかなくなった。特に各避難施設を掌握する人物の選択と、その責任者の段取りの巧みさで、避難者の状況は大きく異なった。

2017-12-22 21:14:19
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

まして、平成の大合併で管理面積が増した二本松市や本宮市の場合には、合併で廃校や休校になった小中学校の校舎に避難者がいる場合、そこにはPTA会長も教頭校長もいないので、受け入れ側の責任者も決めることが困難で、支援物資も十分に集まらなかった。飲食品も不足してきた。

2017-12-22 21:14:20
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月11日以後、3月いっぱいの間は、福島県中通りでは自動車の燃料も飲食品も外部からの供給が途絶えたので、浜通りからの避難者だけではなく、中通りの住民にも食糧不足が出始めた。特に本宮市とそれより北は、水道が一括断水したので、毎日全世帯で給水車からの水が必要になった。

2017-12-22 21:14:20
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

我が家では、地震直後の妻の素早い判断で、生活用水も飲料水も確保できたので何とかなった。参考のために記すが、バスタブ・たらい・バケツ・洗面器に水を張り、さらに衣装用ビニールケースの中に大きなポリ袋を開きそこにも水を貯めたので、水不足はなかった。被曝しながらの給水待ちもなかった。

2017-12-22 21:14:20
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

避難者の話に戻る。 2011年3月12日の15時ごろまでは、多くの避難者たちは数日で帰宅できると思っていた。実は、ラジオ放送で12日9時に原発敷地から10㎞以上離れた地点で空間放射線量の上昇が報じられていたので、私と妻は原発で燃料に何かが起きていると考えていたのだが、そういう人は少数だった。

2017-12-22 21:23:40
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

3月12日15時36分、東電福島第一原発1号建屋が爆発しても、双葉町と大熊町からの避難者以外は、自分の町で爆発が起きたわけではないので、避難は数日だと思っていた。14日の爆発が起きた後も、長くて数か月で帰還できると考えていた人が多かった。

2017-12-22 21:23:40