二項対立批判の逆説(デリダ、脱構築、エクリチュール)

ジャック・デリダの「脱構築」と二項対立について。 引用元:仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想』
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石橋秀仁 @zerobase

デリダは、一定の様式に従って産出されるエクリチュールの中で、”何か”を語ろうとする”主体の意図”は事後的に形成されるのであって、最初から”主体のオリジナルな意図”なるものが「テクストの外」(=主体自身の内面)に存在するわけではないという立場を取る。

2010-03-30 01:09:51
石橋秀仁 @zerobase

何らかの(価値の序列を含意する)二項対立図式に対抗する形で、それを批判する主旨のことを”書け”ば、その二項対立図式が書き込まれてきた(と私が思っている)エクリチュールに、私自身も新たに同様の対立図式を書き足し再生産してしまうという恐れは常にある。

2010-03-30 01:13:04
石橋秀仁 @zerobase

エクリチュールによってエクリチュールの抑圧構造を暴露しようとするのであるから、当然、こういう逆説が起こってくる。デリダはこうした逆説を指摘することによって、フーコーのような権力批判さえも、マルクス主義同様に無効であると主張しているわけではないが、

2010-03-30 01:14:36
石橋秀仁 @zerobase

二項対立図式を免れて、純粋に真実のみを映し出せるような透明なエクリチュールはないことに注意を向ける。このため「狂気」の囲い込みの「歴史」をある程度具体的に描こうとするフーコーとの間で論争になる。仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想』参照

2010-03-30 01:16:16
石橋秀仁 @zerobase

こうした構造主義的テクストの脱構築的な読解を通してデリダは、西欧的な「人間」像を解体して、人間を人間たらしめている”より本来的なもの”を明らかにしようとする構造主義の試みが、結果的に、西欧的な「人間」像を支えてきた二項対立的価値観を再確認してしまう、という逆説を示唆する。

2010-03-30 01:18:58
石橋秀仁 @zerobase

>デリダは、その「限界」を超えようとするのではなく、むしろその中(=エクリチュールの内部)でしか思考できない”我々”の思考の有限性を自覚し、すべてを「知」によって把握しようとする”我々”のエクリチュールの暴力を抑えようとする。

2010-03-31 02:34:19