垣内和孝氏『伊達政宗と南奥の戦国時代』読んで「中人制」について考えた

戦国期南奥の「中人制」も、結局は実力次第だったのではないか?という話
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三浦介 @miurano_suke

垣内和孝さんの『伊達政宗と南奥の戦国時代』面白かった(^_^) 以下だらだら感想と読んで考えたことを述べます。

2017-09-24 14:54:18
三浦介 @miurano_suke

垣内和孝氏の『伊達政宗と南奥の戦国時代』特に第一部第一章の「中人制」を「戦国期南奥の特色として過大に評価するにはやや疑問を感じる」(引用)という部分と、第四章の山田将之氏の「中人制」についての見解への疑問、そして同章結びの、

2017-09-24 14:54:58
三浦介 @miurano_suke

南奥で領主の家格が維持され攻滅させられることがなかったのは「南奥領主層における中人制が効果的に機能していたから」(引用)というのは概ね同意できるし、重要な指摘なんじゃないかと思う。 特に「中人制が効果的に『機能していたから』」という部分が「まさに!」と思った。

2017-09-24 14:55:48
三浦介 @miurano_suke

それはなぜかといえば南奥で戦国最末期まで並立状態が続いたのは「中人制」という「制度」の力故ではなかった(結局「中人制」を機能させていたのは「実力」だった)と思うから。

2017-09-24 14:56:27
三浦介 @miurano_suke

そのことは永禄末期以降の石川郡石川氏の没落・復帰と、天正14年の二本松畠山氏の滅亡を較べれば明らかなように思われる。

2017-09-24 14:57:25
三浦介 @miurano_suke

元亀3年、蘆名氏による石川郡制圧(これにより石川氏当主父子は居城を追われた)は石川氏の領主権を明確に否定するものだったといえると思う。然るに石川氏は後に石川郡の領主として復帰している。

2017-09-24 14:58:29
三浦介 @miurano_suke

これは何故かと言えば「中人制」の力というよりは蘆名氏に劣らない強大な力を持った佐竹氏が蘆名氏による石川氏の領主権否定を認めず抗争を続け、最終的に蘆名氏を押し返したからであろう。

2017-09-24 15:01:24
三浦介 @miurano_suke

一方、天正14年の二本松畠山氏の場合はどうか。 畠山氏は伊達氏の侵攻を受けて居城を追われ、事実上滅亡するわけだが、このとき成立した所謂「二本松惣和」も中人を介して成立したものだった。つまり畠山氏の領主権を否定した上で結ばれた講和だったといえると思う。

2017-09-24 15:02:16
三浦介 @miurano_suke

このことは「中人制」という制度は基本的に秩序を維持する傾向を持つとしても、決して旧来の状況や「領主権」を保障するものではなかったことを示しているのではないだろうか。

2017-09-24 15:02:56
三浦介 @miurano_suke

そしてまた、そのような「領主権の否定」を伴う講和を成立させた理由は、南奥諸氏が伊達方と佐竹方に二分されたがために正しく中人となれる「中立的な存在の消失」による「中人制の機能不全」ではなく、

2017-09-24 15:04:13
三浦介 @miurano_suke

伊達氏の、畠山氏の領主権を否定し、それを保護しようとした蘆名氏を始めとする諸勢力を圧倒した事実と強大な実力に求められるべきではなかろうか。

2017-09-24 15:04:48
三浦介 @miurano_suke

というわけで、わかりにくかったとは思うけど、様々首肯しつつも、蘆名氏による石川郡制圧に見られるように伊達氏による畠山氏攻滅以前にも南奥領主による他氏の領主権否定の動きは見られる(規模は小さいが安積伊東氏や安達郡の本宮氏などはもっと古く天文年間に居城を追われ所領を失っている)し、

2017-09-24 15:05:33
三浦介 @miurano_suke

第一部第四章の結論である伊達氏や佐竹氏を南奥秩序の外部勢力とし、両氏により南奥の地域的な統一が進められたのは彼らが「外部に位置する勢力」だったからとする見解には疑義があるかなあ…と思いました。 だらだら愚考の垂れ流し、失礼しました<(_ _)>

2017-09-24 15:06:27