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光岡英稔 @McLaird44
先日、いくつか神社参拝に関するツイートやリツイートをしたが、質問は「二礼二拍手一礼」の参拝方法を何処の、誰が、どのように、いつ、決めたかだった。この参拝方法の否定してる方も肯定されてる方も、否定/肯定していることの素性と根拠を分からず否定/肯定されていたことが分かった。⇒
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そこで、私としては純粋に、この「二礼二拍手一礼」が「いつ、どこで、誰が、どのように、何を本に」決めたかが知りたかったので、自分でも調べたり誰か尋ねられそうな人を考えていたところ、ある方の名前が浮かんで来た。⇒
光岡英稔 @McLaird44
それは世界的な火起こしの達人、和光大学の関根秀樹先生だった。よく考えたら、こんなに身近にフィールドワークと文献の双方から様々なことに関する知恵と知識をお持ちの関根先生なら何かご存知かと思い、メールにて失礼ながら連絡し、この神社参拝の「二礼二拍手一礼」に関する質問をしたところ、⇒
光岡英稔 @McLaird44
予想通りと言うか、予想以上の素晴らしいメールが返って来て改めて、この関根秀樹と言う人間の凄さを目の当たりにした。その神社参拝に関する私と関根先生のメールのやり取りをツイートで紹介して行きたい。⇒
光岡英稔 @McLaird44
◆光岡先生、神社の神拝作法「二礼二拍手一礼」の来歴に関して、私の知る限りのことを書いておきます。学生時代に伊勢神宮や天皇家等の火起こし儀式の捏造の歴史を検証するために読み漁ったものがもとになっていますし、⇒
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福島県石川郡の関根家は祖父の代まで玉川村(須釜村)の都々古別神社の宮司家で母方も宗旨は神道でした。⇒
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そもそも拍手が「かしわで」と呼ばれるようになったのは拍と柏の混同からで、『源氏物語』にもすでに混乱がありますが、江戸時代には「手が柏の葉の形をしているから」などと解釈した国学者も多かったようです(伊勢貞丈など)。⇒
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二礼二拍手一礼は、結論から言えば敗戦後の昭和23年(1948)にあった「神社祭式行事作法」改正が直接の根拠です。ただし、これは神職(一般にいう神主)の祝詞奏上にともなう作法で、「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」。⇒
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一般の参拝者の作法の規定はなく、その後、最初の再拝(二拝)と祝詞奏上を省いて一般参拝者向けに普及したのが「二礼二拍手一礼」の作法です。拝は深いお辞儀。他に浅いお辞儀「揖(ゆう)」が二種(深揖、小揖)があり、これらを総称するのが神道の「礼」です。⇒
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神社祭式は明治8年4月に官国弊社の祭式を定める式部寮達(しきぶりょうたっし)として発せられ、同年8月には国家神道の確立・普及のために神祇官→神祇省から改組された教部省の布達(教部省達)として県社以下の全国各地の神社祭式に関しても「一社の故実に拠らず」官国弊社に準ずべしとされました⇒
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このとき、神職の祝詞奏上や拝礼に関する作法としては「再拝拍手」とだけ記されています。拝は礼より深いお辞儀だとする本もありますし、具体的に60度と45度という角度で書いたのもありますが、江戸期にそんな厳密な規定が一律にあったはずがありません。⇒
光岡英稔 @McLaird44
再拝拍手を字義の通りに読めば「2回拝んで拍手する」なのですが、江戸期までの神道ではこの「再拝」も「拍手」も回数や順序など神社によって、場合によっては神職によってごちゃごちゃに混乱していた経緯があり、各地の神社はまたまた解釈で混乱してしまいました。⇒
光岡英稔 @McLaird44
実際には罰則がないため、布達の効力はそれほどなかったと思われ、それぞれ「一社の故実」にしたがって神拝していたと思います。⇒
光岡英稔 @McLaird44
公家(日本書紀など歴史を講究する家系)の坊城俊政(としただ)は晩年のこの時期、式部寮(宮内省式部職)の長官である式部頭でしたが、基本的には宮中祭式などを制定し司る式部職の責任者、官僚の立場で、神道家ではありませんし、⇒
光岡英稔 @McLaird44
具体的な祭式を創り上げる知識や素養を持った式部官たちを統括した、ということでしょう。⇒
光岡英稔 @McLaird44
また、宮中祭式は国際化に向けて拍手を省略・排除する方向に進んで行きましたから、「二礼二拍手一礼」を定めたという根拠はまったくありません。⇒
光岡英稔 @McLaird44
神社祭式の制定にはむしろ幕末に神祇官の要職にあった津和野藩主亀井滋監の命を受けて明治初期の神祇官で活躍した福羽美静ら津和野派の国学者たちの影響が大きいのではないでしょうか。⇒
光岡英稔 @McLaird44
「二礼二拍手一礼(神職はもう少し丁寧な二拝二拍手一拝)」の淵源は古来の「両段再拝」にあるというのが戦後神道界の見解ですが、⇒
光岡英稔 @McLaird44
この両段再拝も、「段」というからには段階の違う二種類のやり方で再拝、二回拝むということかと思ったら、再拝(深いお辞儀2回)を重ねる、つまり二拝を二回、合計四拝することを「四度拝」あるいは「両段再拝」というそうで、「段」の質についての具体的な違いを解説した記録は見当たりません。⇒
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もう一つ混乱するのは、拍手については八回重ねる八開手(やひらで)を一段とすることで、最も重い拝礼では四段(32回)を極みとしました。拝と拍手では「段」の意味する回数が4倍も違っています。⇒
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平安後期の故実書『江家次第』(大江匡房)などには、かなり複雑な組み合わせの神拝作法がいろいろ記録されています。⇒
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また、本居宣長の高弟で備中吉備津神社の藤井高尚の随筆『松の落葉』(天保元年ごろ)巻之二には、正式には両段再拝して八開手をうつのだが、朝毎に何かしらの神を拝むには毎回そうもしておられず、総じて二つうつのが慣習なのだが、それは書物には記録されていない、というような事が書いてあります⇒
光岡英稔 @McLaird44
二拍手の貴重な記録で、本式ではない略式だということがわかります。明治11年に内務卿に就任した伊藤博文は「一揖、再拝、二拍手、一揖」を正式な作法と言っていたそうですが、 最初の一揖をなくせば「二礼二拍手一礼」とほぼ同じです。⇒
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「揖」というのは本来、神職が笏を胸の前に立てて持ち、上体をやや前に傾けて行う礼で、45度が深揖、15度くらいが小揖で、拝は60度という解釈もありますが、笏を持たない場合は手を胸の前で軽く組んで行います。元は隋唐の官僚の礼法が形骸化したものです。⇒
光岡英稔 @McLaird44
伊藤は福羽美静ら津和野派に近い長州人ですから、当然その影響はあったでしょうし、討幕までは活躍したものの明治の初めに失脚した平田派(美静ら津和野派の師、大国隆正は平田篤胤門下)の影響もあるかもしれませんが、記録もなく、そこは不明です。⇒
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コメント

ぉざせぃ @hijirhy 13日前
国家神道を確立する過程で、参拝の様式も統一を図ったってことかな?
まさかなまき @MASAKANA_MAK 13日前
当たり前っちゃ当たり前だけど、いつの時代のどんなジャンルにも、それが文化であるかぎりマナー講師的なものが発生するんだねぇ。
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