まとめの限定公開に「リンク限定」が追加されました。URLを伝えてまとめを共有しよう!

スバス・チャンドラ・ボースの胸像

杉並の蓮光寺にあるチャンドラ・ボースの胸像。 ボースを軸にちょっとした歴史を。
インド 蓮光寺 チャンドラ・ボース 歴史 ネタジ インド史
773view 0コメント
このまとめをお気に入りにして応援しよう!
0
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
【チャンドラ・ボース胸像】 インド独立運動の英雄 チャンドラ・ボース ボース事故死より30年後の昭和50年8月18日に遺骨を預かる頂光山蓮光寺(杉並区)境内に建立。 先日、友人よりチャンドラ・ボース像の話を聞きまして脚を運んでみました。 杉並区・蓮光寺 地図→ goo.gl/maps/Bh2e4LYon… pic.twitter.com/3lQqUhBPvp
 拡大
 拡大
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
記 昭和20年9月18日 蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年、我々スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史氏の御厚意により茲に胸像を建て之を後世に伝えるものである pic.twitter.com/Ln8TVKv2Zh
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
チャンドラ・ボース胸像 昭和50年8月18日 頂光山蓮光寺 第29世 日輝 第30世 日史 建立 pic.twitter.com/7usO0utcZ9
 拡大
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー 歴史を感じる… ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将 第十五軍司令官・牟田口廉也中将 ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将 印度独立協力機関長・岩畔豪雄少将 特務機関光機関長・磯田三郎中将 参謀本部第二部長・有末精三中将 駐ドイツ特命全権大使・大島浩中将 pic.twitter.com/s4aHKauVqo
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー そこに連なる名前はチャンドラ・ボース氏とともに、日本とインドが歩んだ歴史。 そしてインパールへと連なる歴史。 _φ(・_・. 初代会長には渋沢敬三元蔵相 初代副会長には岩畔元少将 最高顧問には河辺元司令官
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
チャンドラ・ボースの碑 當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸運とするところであります 1958年10月4日 ラジェンドラ・プラサット大統領 pic.twitter.com/SokOyEXZBO
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
チャンドラ・ボースの碑 佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります 1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相 御仏の光が真心と平和に向かって人々のために永久に私達を導かれんことを 1969年6月26日 インディラ・ガンジー首相 pic.twitter.com/8ERQyBw0gA
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
チャンドラ・ボースの碑 インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボーズの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います 2001年12月9日 パジパイ首相 pic.twitter.com/BW5DqgRnXv
 拡大
リンク Wikipedia スバス・チャンドラ・ボース スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、ベンガル文字:সুভাষচন্দ্র বসু 発音、1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 - 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。なおベンガル語の発音は、シ..
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
インド独立運動の英雄 スバス・チャンドラ・ボース インド独立運動の非暴力主義のマハトマ・ガンディーに対し急進派として活躍。英独間で戦争が始まるとイギリスと敵対するドイツに亡命。 昭和16年12月 大東亜戦争初戦でのマレー作戦での日本勝利と英大敗は、ボースを奮い立たせ日本行きを熱望する。
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和17年6月 シンガポールにて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボース(通称・中村屋のボーズ・新宿中村屋の相馬家の婿でもあった)を指導者とするインド独立連盟が設立。 しかしビハーリー・ボースの体調が芳しくない事から後継者として独立運動家として著名なチャンドラ・ボースの招聘が決定。
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和18年2月8日 チャンドラ・ボースがドイツから日本に移動する手段として、既に陸路も空路も危険が伴うために日独の潜水艦がインド洋で合流するという海路での移動が選ばれる。 そうして、チャンドラ・ボースが乗り込んだドイツ海軍のUボートU180がフランス大西洋岸のブレストを出航。
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和18年4月26日 インド洋マダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦(伊29)が海面で合流。翌日にチャンドラ・ボースは日本潜水艦伊29に移乗。 画像はWikipediaより 伊29艦長・伊豆寿一中佐と乗組員、チャンドラ・ボース氏と秘書ハッサン氏 → commons.m.wikimedia.org/wiki/File:1943… pic.twitter.com/tch5GH5o9Y
 拡大
リンク Wikipedia UボートIX型 UボートIX型 (U-Boot-Klasse IX) はドイツ海軍の潜水艦で、第二次世界大戦で用いられた。IXA、IXB、IXC、IXC/40、IXD/1、IXD/2、IXD/42の8つのサブタイプに区分される。基本的な設計はIA型を改良したものである。本型の建造に際し、より小型のVII型を主力としようとしたドイツ海軍上層部ではかなりの議論が交わされたようだが、実際に建造してみると、航続距離が長く、大西洋を駆け巡っ..
リンク Wikipedia 伊号第二十九潜水艦 伊号第二十九潜水艦(いごうだいにじゅうくせんすいかん、旧字体:伊號第二十九潜水艦)は、大日本帝国海軍の伊十五型潜水艦(巡潜乙型潜水艦)の10番艦。最初は通商破壊任務に用いられ、インド洋を主戦場として7隻の船舶を撃沈した。また、日本とドイツの往復に成功寸前まで行った潜水艦として有名。当初は伊号第三十三潜水艦と命名されていたが、1941年(昭和16年)11月1日に伊号第二..
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和18年5月6日 伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。 東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。 pic.twitter.com/Iro84XEUQe
 拡大
 拡大
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
余談 伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐 そしてニ代目艦長が有名な木梨鷹一中佐 伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…
リンク Wikipedia 自由インド仮政府 自由インド仮政府(じゆうインドかりせいふ、ヒンディー語: आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द、 ウルドゥー語: عارضی حکومت‌ِ آزاد ہند‎)は、イギリス領インド帝国としてイギリスの植民地支配下にあったインドの即時独立をめざし、東南アジアのシンガポールにおいて樹立された暫定政権。日本は1941年12月に大東亜戦争(太平洋戦線)を起こし、その後イギリスの植民地を含む東南アジア各地..
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和18年11月 大東亜会議開催 左から ビルマ国 バー・モウ 満州国 張景恵 中華民国(南京)国民政府 汪兆銘 日本国 東條英機 タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王 フィリピン共和国 ホセ・ラウレル 自由インド仮政府 チャンドラ・ボース ※なお、インドはオブザーバー枠 → commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Grea… pic.twitter.com/2n2ZuOXDsq
 拡大
リンク Wikipedia 大東亜会議 大東亜会議(だいとうあかいぎ、旧字体: 大東亞會議)は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。同年5月31日に御前会議で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。当時の日本の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことにより独立とされたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東..
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和19年 ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。 のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。
リンク Wikipedia 324 インパール作戦 インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。補給線を軽視した作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される..
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。 結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和20年8月15日 日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。 ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。
伊達JKN@神社&史跡戦跡探訪 @Jinja_Kikou_Net
昭和20年8月18日午後 台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。 しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。
残りを読む(23)
ログインして広告を非表示にする