2018年1月29日

曲亭(滝沢)馬琴の生涯をまとめてみた

『南総里見八犬伝』で有名な曲亭(滝沢)馬琴の生涯を訪れた写真とパブリックドメインの画像でまとめてみました。
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1848年12月1日(嘉永元年11月6日)江戸時代後期の読本作者・曲亭馬琴が82歳で亡くなりました。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』 ほとんど原稿料のみで生計を営む事が出来た、日本で最初の著述家だそうです。墓所は東京都文京区の深光寺に在ります。 #南総里見八犬伝 #曲亭馬琴 pic.twitter.com/4jbViW8wO7

2017-12-01 20:19:53
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1767年(明和4年)曲亭馬琴こと瀧澤興邦は、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷で同家用人・瀧澤運兵衛興義の五男として生まれます。 瀧澤家は他に長兄・興旨、次兄・興春、妹2人の兄妹が居ましたが、兄2人が早世していた為、興邦は瀧澤家で三男として育ちます。 pic.twitter.com/u42zwRczkU

2017-12-01 20:55:48
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

やはり、便宜上曲亭馬琴の方が世に知られているのでそちらの名前でいきます。

2017-12-03 21:04:20
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

馬琴は幼い時から絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだそうです。しかし1775年(安永4年)馬琴9歳の時に父が亡くなり、一家の暮らしは困窮します。 父の死後は長兄の興旨が17歳で家督を相続しますが、主家が俸禄を半減させた為、兄は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去り戸田家に仕えます。

2017-12-03 21:06:28
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次兄の興春は以前から他家に養子に出ていました。母と妹も長兄・興旨と共に戸田家に移った為、松平家には馬琴1人が残ったのです。 馬琴は主君の孫・八十五郎に小姓として仕えますが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、1780年(安永9年)14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居しました。

2018-01-27 19:40:19
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1781年(天明元年)馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗ります。 また、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)と共に越谷吾山に師事、17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録され、この時初めて「馬琴」の号を用いています。 pic.twitter.com/fZJY0dpTO5

2018-01-27 19:40:20
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1787年(天明7年)21歳の時には俳文集「俳諧古文庫」を編集。また、医師の山本宗洪・宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んでいますが、馬琴は医術よりも儒学を好んだようです。 馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士となりますが、尊大な性格から長続きしませんでした。

2018-01-27 19:40:21
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馬琴はその後も武家の渡り奉公を転々とします。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っていました。 1785年(天明5年)母の臨終の際には馬琴は所在不明で、兄たちの奔走でようやく死に目に間に合います。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲には不幸が続きます。

2018-01-27 19:40:21
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1790年(寛政2年)馬琴24歳の時に浮世絵師で戯作者の山東京伝を訪れ、弟子入りを請い、弟子入りは断られますが親しく出入りする事は許されます。 1791年(寛永3年)正月、江戸で流行していた壬生狂言を題材に馬琴は【京伝門人大栄山人】の名義で pic.twitter.com/xVcEidSG7h

2018-01-27 20:40:13
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黄表紙「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発します。しかしこの年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控える事になりました。 手鎖とは江戸時代の刑罰で、前に組んだ両手に鉄製で瓢箪型の手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させるものです。

2018-01-27 20:40:14
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

主に牢に収容する程ではない軽微な犯罪や未決囚に対して行われていました。 この年の秋、洪水で深川に在った家を失った馬琴は京伝の食客となり、京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになっていきます。 pic.twitter.com/up4NbLgs5t

2018-01-27 20:40:14
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食客とは中国の戦国時代に広まった風習で、君主たちが才能のある人物を客として遇して養う代わりに主人を助けるというものです。 1792年(寛政4年)3月 馬琴は版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われます。商人に仕える事を恥じた馬琴は、武士の名を捨てて通称を瑣吉に、諱を解に改めました。

2018-01-27 20:40:16
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1793年(寛政5年)27歳の馬琴は蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現:千代田区九段北一丁目)で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百の婿になります。 しかし馬琴は会田氏を名乗らず、滝沢清右衛門と名乗ります。結婚は生活の安定の為だったからです。 pic.twitter.com/zdPXsq5I9F

2018-01-28 18:27:56
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馬琴は履物商売には興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(大家)をして生計を立てていました。 やがて歌人で書家の加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけます。1795年(寛政7年)に義母が没すると文筆業に打ち込むようになり、履物商は辞めています。 pic.twitter.com/yr1I79aBfJ

2018-01-28 18:27:58
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結婚の翌年の1794年(寛政6年)には長女・幸が、1796年(寛政8年)には二女・祐が誕生。 後の1797年(寛政9年)には長男・鎮五郎(=宗伯興継)が、1800年(寛政12年)には三女・鍬が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となりました。

2018-01-28 18:27:59
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1796年(寛政8年)30歳の頃から本格的な創作活動が始まります。同年に刊行された読本「高尾船字文」は馬琴の出世作となりました。 この頃からより通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いており、ほぼ同時代に大坂では怪異小説「雨月物語」で有名な上田秋成が活躍しています。 pic.twitter.com/KvGlyJOzZP

2018-01-28 20:11:58
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1804年(文化元年)に刊行された読本「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしますが、一方で恩人の山東京伝と読本の執筆をめぐり対抗するようになります。 1807年(文化4年)から刊行が開始された「椿説弓張月」や、1808年(文化5年)の「三七全伝南柯夢」で馬琴は名声を築きます。 pic.twitter.com/6cq9fD1YDg

2018-01-28 20:11:58
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一方で京伝は読本から手を引いた為、読本は馬琴の独擅場となりました。 そして1814年(文化11年)「南総里見八犬伝」肇輯が刊行。 その2年後の1816年(文化13年)恩人であり競争相手でもあった山東京伝が亡くなります。

2018-01-28 20:11:59
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

「南総里見八犬伝」の執筆には、1814年~1842年(文化11年~天保13年)の28年を費やし、馬琴のライフワークとなります。 1818年(文政元年)馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現:千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として長男・宗伯を移住させます。 pic.twitter.com/DLUnhFnGx6

2018-01-28 23:09:21
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一人息子の興継は医術を修め、1814年(文化11年)宗伯と名乗ります。 1820年(文政3年)馬琴の愛読者の老公・松前道広の好意で宗伯は陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となります。 宗伯が俸禄を得た為、武家としての滝沢家の再興を悲願だった馬琴の思いの半分は叶ったのです。

2018-01-28 23:09:23
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1824年(文政7年)58歳の馬琴は神田明神下の宗伯宅を増築して引っ越し、宗伯と同居します。馬琴は隠居となり、剃髪して「蓑笠漁隠」と称します。 1833年(天保4年)67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、間もなく左眼もかすみ始めました。 pic.twitter.com/S4Dzc1iD1M

2018-01-28 23:09:23
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1835年(天保6年)多病で虚弱だった宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次ぎます。 馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、1836年(天保7年)には四谷鉄砲組の御家人株を購入。 御家人株購入の為に馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いていました。

2018-01-28 23:09:24
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

やがて、神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現:新宿区霞岳町)に移住します。 1839年(天保10年)73歳の馬琴は遂に失明し、執筆が不可能になってしまいます。この為、宗伯の妻・お路が口述筆記ををするのですが、馬琴の作家生活に欠かせない存在のお路に妻のお百が嫉妬。 pic.twitter.com/QmI5Ivo9jt

2018-01-28 23:09:24
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

家庭内の波風が絶えなかったようです。そのお百も、1841年(天保12年)に亡くなります。 同年8月に「八犬伝」の執筆が完結し、1842年(天保13年)正月に刊行されます。 馬琴は「回外剰筆」で読者に自らの失明を明かすと共に、お路との口述筆記の辛苦を書き記しています。

2018-01-28 23:09:26
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

馬琴はお路を筆記者として「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けていましたが、これらの完結を見ないまま、1848年12月1日(嘉永元年11月6日)82歳で死去。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれています。

2018-01-28 23:26:51
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コメント

山吹色のかすてーら @sir_manmos 2018年1月29日
半村良先生が小説(たしか「およね平吉時穴道行 」)で原稿料だけで食っていけるようになったのは、山東京伝のおかげなのに、京伝をボロカスに言うってボヤいてた。
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◇もえ◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408 2018年1月29日
sir_manmos コメントありがとうございます。一時期は暮らす事にも苦労していたところを助けてもらっていたようなので何が彼を変えてしまったのでしょうね。
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山吹色のかすてーら @sir_manmos 2018年1月30日
MoeK20060408 弟の京山とはとくに仲が悪かったようですね。何があったのか。
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