第19代・内閣総理大臣 原敬の生涯をまとめてみた

1921年(大正10年)11月4日 東京駅で刺殺された 第19代・内閣総理大臣 原敬の生涯を簡単にまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1921年(大正10年)11月4日 当時の総理大臣・原敬が、東京駅乗車口で(現:丸の内南口)鉄道省・山手線大塚駅職員の中岡艮一に暗殺されました。享年66歳。 原は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かう途中でした。 #原敬 #平民宰相 pic.twitter.com/AHfBUsIfYb

2017-11-04 13:09:07
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原敬は、1856年(安政3年)3月15日 盛岡藩盛岡城外の岩手郡本宮村(現:盛岡市本宮)で盛岡藩士・原直治の次男として生まれました。 後に「平民宰相」と呼ばれますが、原家は祖父・直記が家老職を務める上級武士の家柄でした。原は20歳の時、分家して戸主となり平民籍に編入されます。 pic.twitter.com/oBbmhvyu17

2017-11-04 16:11:17
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第19代・内閣総理大臣 原敬 戸籍謄本 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/TdvecCh3zr

2019-02-22 19:25:39
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原敬生家 (岩手県盛岡市本宮 原敬記念館敷地内) この武家屋敷は平民宰相・原敬の生家です。原家第7代当主 原敬の祖父で盛岡藩家老・原直記芳隆が1850年(嘉永3年)に大改築したもので、往時は200坪もある大きな屋敷でした。 藩主を迎えるために「御成座敷」も特別に作られています。 pic.twitter.com/OYGkJR1syN

2018-10-21 22:22:35
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家の造りは幕末嘉永3年の工法や用材を現在に伝える貴重な史跡となっています。1856年3月15日(安政3年2月9日)原敬はこの家で生まれ、1871年(明治4年)に上京するまでここで生活していました。 1873年(明治6年)原敬の兄で原家第9代当主・原恭は「御成座敷」など不要となった部屋を廃却。 pic.twitter.com/C7r0nIk2oE

2018-10-21 22:22:37
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現在は居間となっている祖父・直記の間、次の間、隅の間、女中部屋など、当初の5分の1程度が残っています。常時公開はしていないようで、土日祝日に公開しているようです。 pic.twitter.com/WVf98vcQwG

2018-10-21 22:22:38
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当時、徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定があり、原はこれを受ける為に分籍したといわれています。 原は家柄についての誇りが強く、いつも自らを卑しくするような言動をとった事がなかったといわれます。1870年(明治3年)再開された藩校・作人館(現・盛岡市立仁王小学校)に入学。

2017-11-04 16:23:33
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展示パネル 「若き日の原敬」 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/1UkhoQK3fl

2019-02-22 20:00:39
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さらに翌年、上京して南部家が盛岡藩出身の青年の為に設立した「共慣義塾」に入学しますが、途中で学費が途絶え数ヶ月で退学しています。 1872年(明治5年)には費用のかからないカトリック神学校に入学します。翌年横浜に移って神父宅に寄寓し、ここで受洗して「ダビデ」の洗礼名を受けます。

2017-11-04 16:28:07
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1876年(明治9年)司法省法学校を受験した際は受験者中2番の成績で合格しますが、学業途中で寄宿舎の待遇改善行動に関与したという理由で退校処分に遭います。 法学校を追放された原は中江兆民の仏学塾に在学後、1879年(明治12年)郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。 pic.twitter.com/34vZtDNqBK

2017-11-04 16:32:44
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入社当初はフランス語新聞の翻訳を担当し、次第に論文も執筆も始めます。しかし、明治十四年の政変をきっかけに大隈重信の一派が同社に乗り込んでくると、彼らと反りが合わず原は退社します。 郵便報知新聞社を辞めた原に政府の高官が目をつけ、御用政党の機関紙『大東日報』の主筆とします。

2017-11-04 16:53:49
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しかし経営不振の為、8ヶ月目で原は離れます。この『大東日報』が縁で政府に接する機会を得た原は、1882年(明治15年)外務省に採用され、外務省御用掛兼務となり、入省の翌年には天津領事に任命されます。 1885年(明治18年)には外務書記官に任ぜられ、パリ駐在を命じられます。

2017-11-04 17:06:34
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辞令「清国天津在勤被仰付候事」 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/urAbApQe5t

2019-02-22 19:51:25
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原は3年余りパリ公使館に勤務し、帰国後は農商務省参事官、大臣秘書官となりました。 1890年(明治23年)駐米公使だった陸奥宗光が農商務大臣になると、陸奥の引きで原の運命が拓けます。第2次伊藤内閣が発足し、陸奥は外務大臣に就任。彼の意向で原は通商局長として再び外務省に戻ります。 pic.twitter.com/Tt0r6iBFiO

2017-11-04 17:11:36
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辞令「兼任農商務省参事官」 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/vU6daxYFVT

2019-02-22 19:52:02
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日清戦争後の1895年(明治28年)原は外務次官に抜擢されます。当時、陸奥外相は病気療養中で文部大臣・西園寺公望が外相臨時代理を兼任していましたが、実務は原が執る事になったのです。 翌1896年(明治29年)陸奥が病気を理由に外相を辞任すると、原も朝鮮駐在公使に転じます。

2017-11-04 17:13:30
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原敬『現行条約論』 原敬『新条約実施準備』 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/Nb5yke13jQ

2019-02-22 19:55:23
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辞令 「任匿名全権公使」※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/YsH3oK7qyZ

2019-02-22 20:22:24
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しかし、間もなく第2次伊藤内閣が崩壊して第2次松方内閣が成立すると、大隈重信が外相となって入閣した事で大隈嫌いの原は見切りをつけ帰国し、外務省を辞めてしまいます。 1897年(明治30年)原は大阪毎日新聞社に入社し、翌1898年(明治31年)には社長に就任しました。 pic.twitter.com/pqmde3TiEa

2017-11-04 17:25:08
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1900年(明治33年)伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めで入党し幹事長に就任。同年12月に汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣します。 原は政友会の結党前と直後に貴族院議員になろうとして、井上に推薦を要請しています。

2017-11-04 18:40:48
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井上馨書簡 明治35年9月8日 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/GuwFpJDz53

2019-02-22 20:08:17
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伊藤博文書簡 明治28年9月17日 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/MfVSpoqLBS

2019-02-22 20:08:18
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一般には原は生涯爵位などを辞退し続け、その身を最期まで衆議院に置いてきたとされています。後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」だと酷評もしています。 その原が貴族院議員を目指したのは、無官でいる為に党内の影響力が低下するのではと懸念しての事といわれます。

2017-11-04 19:01:55
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結局、貴族院入り問題は立ち消えになります。爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけをしていた事実が明らかになっています。 原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、政友会幹部として自信を深めていく明治末期以後のようです。 pic.twitter.com/yLoEBCGyTf

2017-11-04 19:08:11
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1901年(明治34年)6月 桂太郎が組閣し原は閣外へ去りますが、星が暗殺された後は第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、後に司法大臣・大蔵大臣を歴任する松田正久と共に政友会の党務を担います。 地方政策では星の積極主義を引き継いで政友会の党勢を拡大していきました。

2017-11-04 19:17:45