10周年のSPコンテンツ!
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朝森久弥 @asamorihisaya
「教科書 日本オタク文化」。 5年前からやろうやろうと言っていていまだにまともに執筆ができていない体たらく。遅きに失した感もあるが、いま書かねば後がないという危機感がある。今年こそ、始めよう。
朝森久弥 @asamorihisaya
「教科書 日本オタク文化」とは何なのか? 日本が誇る産業のひとつ『オタク文化』の歴史と現況を、1冊でおおまかに理解してもらえるような本を作ろうという無謀なプロジェクトである。
朝森久弥 @asamorihisaya
オタクという言葉は多義的だが、僕が「教科書 日本オタク文化」で扱う『日本オタク文化』は、次のように定義する。 “日本発祥のアニメ・マンガ・ビデオゲームとその周辺分野”
朝森久弥 @asamorihisaya
僕は10年前、「日本オタク文化検定」なるウェブ検定を世に送り出し、りきお氏のブログで取り上げられたことをきっかけに人気を集め、15回で延べ4万人の受験者を集めた。 curiosist.web.fc2.com/contents03.html
朝森久弥 @asamorihisaya
当時から「アニメオタク」「マンガオタク」「ゲームオタク」など、それぞれの分野におけるオタクの存在はよく知られていた。そもそも、オタクというのは特定分野に異常に詳しい人を指す言葉だったのだから、オタクといえば「〇〇〇オタク」と、頭に何かが付くのは当然のことだった。
朝森久弥 @asamorihisaya
けれども、僕が本格的に日本オタク文化に触れ始めたゼロ年代後半ごろから、オタクという言葉への認識がどうにも変化してきていると感じるようになった。つまり、なんとなくアニメやマンガやゲームが好きな人を指して「オタク」と呼ぶ時代が来ているのではないかと思ったのだ。
朝森久弥 @asamorihisaya
そんな日本オタク文化に触れながら、僕は日本オタク文化検定や日本オタク文化全般を扱うクイズゲームを作ってきたけども、この10年間で日本オタク文化はサブカルチャーからメインカルチャーのひとつへと変貌し、「オタク」が消滅するのを目の当たりにしてきた。
朝森久弥 @asamorihisaya
僕の見立てでは、日本オタク文化がサブカルチャーとして日本に定着したのはおよそ1970年前後で、これがメインカルチャーとなり「オタク」が消滅したのは2015年前後である。あと数年もたてば、いよいよオタクという言葉自体も使われなくなるかもしれない。そうなる前に、教科書を書きたいと思ったのだ。
朝森久弥 @asamorihisaya
日本オタク文化の歴史は、たとえば義務教育レベルで取り立てて学ぶ必要はないだろうけど、日本人としての教養として、高校や大学で学ぶ時代がくるかもしれない。そこで僕が書く「教科書 日本オタク文化」は、高校1年週2コマの授業、大学半期週1コマの講義で教科書として使える分量を目指す。
朝森久弥 @asamorihisaya
具体的には、高校の「現代社会」の教科書にならってB5版で216ページ程度、巷で売られている新書と同じくらいか若干薄い目のボリュームを目指す。「日本オタク文化」を扱うからと言って、取り立ててマニアックにする必要はないし、するべきでない。オタクが消滅した未来の日本人に向けて書くのだから。
朝森久弥 @asamorihisaya
この教科書で扱う「日本オタク文化」は“日本発祥のアニメ・マンガ・ビデオゲームとその周辺分野”と言ったが、そもそもアニメ・マンガ・ビデオゲームとは何なのか。
朝森久弥 @asamorihisaya
この3者の中でもっとも歴史が古いのが「マンガ」だろう。平安時代に描かれたとされる鳥獣戯画をマンガの起源と考える向きもあるが、現代日本マンガのように、大衆娯楽としてマンガ(戯画)が消費されるようになったのは江戸時代、出版物の一ジャンルとして産業が成立するようになったのは明治時代。
朝森久弥 @asamorihisaya
1720年ごろ刊行された「鳥羽絵」や1814年ごろに葛飾北斎が出した「北斎漫画」は、こっけいな絵をまとめた浮世絵の1ジャンルとして、都会に住む庶民に流通したけれども、ゆーて木版印刷であり流通量には限界があった。
朝森久弥 @asamorihisaya
マンガが産業として成立するには、日本に活版印刷とマスメディアが誕生する必要があった。この2つが現れたのは明治時代が始まるころで、『ジャパン・パンチ』『團團珍聞』『東京パック』といった風刺マンガが流通した。
朝森久弥 @asamorihisaya
風刺がおっぴろげに産業になるというのも、封建社会が終わった近代日本ならでは。もっとも、近代そして現代でも、マンガは時の権力に潰されたり利用されたりしてきた。裏を返せば、それだけ力を持つものだと日本社会で認められてきた証だ。
朝森久弥 @asamorihisaya
次に、「アニメ」って何だろうと考えてみる。簡単に言えば動く絵なわけだが、正確には、止まっている絵を高速で次々と表示することで、動いているように見えているのだ。その最初の試みは、1832年にベルギーのJ・プラトーが発明した『フェナキスティスコープ』に遡る。 web.canon.jp/technology/kid…
朝森久弥 @asamorihisaya
フェナキスティスコープは、人の仮現運動という仕組みを利用した映像玩具だったが、これが続々と改良され、1892年、フランスのE・レイノーが『テアトル・オプティーク』を作り出し、劇場に集めた沢山の人に対して一度に動く絵、すなわち動画を見せることが可能になった。
朝森久弥 @asamorihisaya
動画を放映する装置の発明は、当然映画の歴史の始まりに繋がるんだけど、マンガの世界にもその潮流は伝わってきた。最近のゲーマーがVRに熱を上げるように、20世紀初めのマンガ家にとって、絵を動かせる技術というのは最先端のテクノロジーだったわけだ。
朝森久弥 @asamorihisaya
明治時代の末期ごろ、海外のアニメが日本に輸入・放映されるようになり、こうした作品は『凸坊新画帖』と呼ばれ親しまれていた。凸坊(でこぼう)というのは当時の日本の漫画雑誌『東京パック』で下川凹天が描いていたマンガに出てくる少年キャラで、マンガ的なものの子供キャラの代名詞だったという。
朝森久弥 @asamorihisaya
国産初のアニメーションは、1917年に下川凹天が作った『芋川椋三 玄関番の巻』とも『凸坊新画帖 芋助猪狩の巻』とも言われているが、いずれもフィルムが見つかっていないようだ。フィルムが残っている最古の国産アニメは、幸内純一の『塙凹内 名刀之巻(なまくら刀)』(1917年)となっている。
朝森久弥 @asamorihisaya
ともあれ、1917年は日本産アニメ元年と言える年で、以来100年もの間、アニメはマンガとともに日本の大衆娯楽として発展していくわけですね。
朝森久弥 @asamorihisaya
マンガ、アニメに続いて、「ゲーム」はどうか。日本語で「ゲーム」というと遊び全般だったりスポーツの試合を指したりするが、ここで言う「ゲーム」は、コンピュータゲームないしはデジタルゲームと呼ばれる類のものを対象にしよう
朝森久弥 @asamorihisaya
となると、ここで言う「ゲーム」が出現するには、コンピュータの登場が前提になる。世界初のコンピュータと一般的に呼ばれているのは、1946年にアメリカで完成された『ENIAC』で、元々弾道計算をする軍事技術として開発されたものだ。
朝森久弥 @asamorihisaya
もうひとつ、ゲームが普及するには不可欠な技術があった。それは「ディスプレイ」だ。初期のものはブラウン管(CRT)と言って、1897年にドイツのブラウンが発明した。日本では1926年に高柳健次郎がブラウン管で電子映像表示に成功した。テレビ放送が始まるのは1953年まで待たねばならなかったが…
朝森久弥 @asamorihisaya
コンピュータゲームのうち、ブラウン管に映して遊ぶ最初期のゲームは、1952年にイギリスのケンブリッジ大学で作られた『OXO』が知られている。一般向けに公開されたゲームとしては、1959年の『Tennis for Two』が有名で、計算機とディスプレイを組み合わせると娯楽が生まれることが世間に認知された。
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