事実/価値の二元論。両者は分けられるのだろうか?
事実判断と価値判断は混同されやすい。それを区別する基準はこのようなものだと思う。つまり判断Xがあったとして、その判断Xを合理的正当化できるか否かである。合理的正当化とはこの場合(1)科学的手法を用いて客観的に検証可能である。(2)真であると考えられる命題からの正しい演繹。
2011-04-05 06:03:39@yutakioka 「客観的に」という部分を「具体的に」と置き換えるとわかりやすいかも。こゆ場合だとたぶん対象が観念(他の概念やら形式やら)を指し示しているのかそれとも事物や現象を指し示して抽象しているのかとか。そやって考えるとどれぐらいメタな、抽象的な事なのかはわかるかも。
2011-04-05 05:45:06ええ、それは一つの方法ですよね~。RT @bornekiller 「客観的に」という部分を「具体的に」と置き換えるとわかりやすいかも。こゆ場合だとたぶん対象が観念(他の概念やら形式やら)を指し示しているのかそれとも事物や現象を指し示して抽象しているのかとか。
2011-04-05 05:46:02ただ区別できないのが病気、病気であると感じたり不健康であると感じるのは価値判断だが、それが当然何らかの疾患なり、器官の不全や不調として認めることができるのならば、これは当然科学的検証結果だから事実判断。ただ何らの不調も見られない場合は単純に価値判断。逆もあり得る。
2011-04-05 06:08:59例えばがんであることが、検査で判明しているにもかかわらず、自分は健康だと言っている患者が居て。そう確信している場合。この場合がんであることは事実判断だが、価値判断ではない。私は病気や病理の認定基準は、結局価値判断と事実判断両者一致している時だと思う。
2011-04-05 06:12:12がんじゃないっていい続けて治ったりする人もたまにいるらしいのでよりいっそう興味深いですね。 RT @yutakioka 例えばがんであることが、検査で判明しているにもかかわらず、自分は健康だと言っている患者が居て。そう
2011-04-05 06:13:39家康さんに今日も先読みされてしまいました。(笑)今それを書いている途中でした。(笑)ただその軸の取り方次第では事実判断といえる場合があります。その軸は恣意的ではあっても。RT bornekiller 賢いと馬鹿なんて価値判断(どゆ基準かは多分に主観だけどw)ですね。
2011-04-05 06:14:34@yutakioka いや、ウェブで見ると興味深い他の話されてるので邪魔かなと気兼ねしながらあっさりお題だけ書いてみましたw
2011-04-05 06:15:21ですね、私もそういう人の特集をテレビで見たことがあります~。逆もあり得ませんね。本人は何とも思っていないのに、精神科医に鬱です、と言われほんとに病気担ってしまう場合RT @lunticy がんじゃないっていい続けて治ったりする人もたまにいるらしいのでよりいっそう興味深いですね。
2011-04-05 06:15:55では「馬鹿」は事実判断だろうか?価値判断だろうか?価値判断であることは自明なので良いとして、事実判断といえるのかといわれれば、言える場合があると言える。例えばそれはある特定のフレームワークの中での知性的能力の欠如と定義しうる。例えば合理的議論」が必要な場面での非論理的な言説。
2011-04-05 06:20:08@yutakioka 滝岡さんの事実判断のレベルと言うのは「「がん」という病気にかかった」というところなのか、「細胞が病変を起こしている(いわゆるガン化している)」というレベルなのでしょうか?なんとなく後者のような気はするのですが。
2011-04-05 06:21:15でもそうすると「馬鹿」というよりはただの「場違い」なんじゃないかっておもいます。 @yutakioka では「馬鹿」は事実判断だろうか?価値判断だろうか?価値判断であることは自明なので良いとして、事実判断といえるのかといわれれば、言える場合があると言える。
2011-04-05 06:22:23そういう意味で不健康は客観的な病理的異常に過ぎないとは言えない。それは病理学者や実験室での要望は満たすことになるが、それだけでは患者を病気あるいは不健康ということはできない。
2011-04-05 06:22:30ええ、後者です。病理的異常ですからねRT @dersturm312 滝岡さんの事実判断のレベルと言うのは「「がん」という病気にかかった」というところなのか、「細胞が病変を起こしている(いわゆるガン化している)」というレベルなのでしょうか?なんとなく後者のような気はするのですが。
2011-04-05 06:23:16@yutakioka ただ病気の場合だと具体的な病名に内実の伴う事実判定をしている(らしい)のは診察した医師ですね。患者は病名と病状、治療の方法やら完治するのかしないのかという個別具体的な説明を受ける。判断ができるようになる。それを医者以外の第三者に病名だけ告げてもわからない。
2011-04-05 06:25:40つまり「馬鹿」の定義を論理的思考力や読解力の欠如とすれば、基本的には多くの場面で馬鹿と事実判断することは可能。しかし、社会的適応能力の欠如という定義であれば、その時々の状況によってでしか認定することができない。
2011-04-05 06:26:44ええ。そうなんです。ですからそこは医師は慎重でなければならないと思うんです、難しいですが。病理的異常=事実判断は伝えても価値判断をしないように努めると。RT @bornekiller ただ病気の場合だと具体的な病名に内実の伴う事実判定をしている(らしい)のは診察した医師ですね。
2011-04-05 06:28:46「賢い」も同様で、論理的思考力や記憶力、読解力、情報処理判断能力というのを基準にすれば、いつでも同じ賢さなので常に事実判断可能だが、「知識」を条件に入れると異なる。専門知識は豊富だが、それ以外はそうでもないということがあるので。
2011-04-05 06:31:23@yutakioka それで診断に納得がいかないとセカンドオピニオンとかゆうのもある。それで別の医師を選ぶ。これは価値判断。そいった文脈では事実判断と価値判断はまさに交錯しますね。お見事。(笑)
2011-04-05 06:34:54ということで、事実/価値判断の区別をすることも可能だし、その判断基準もあるが、場合によってはそれが可能でないときもあるということである。そういう意味で私はパトナムやデューイのように常に区別がつかないとは言わないが、逆に、いつでも判別可能だという論理実証主義の主張もとらない。
2011-04-05 06:35:44ええ、そういうことですね。(笑)RT @bornekiller それで診断に納得がいかないとセカンドオピニオンとかゆうのもある。それで別の医師を選ぶ。これは価値判断。そいった文脈では事実判断と価値判断はまさに交錯しますね。お見事。(笑)
2011-04-05 06:39:52何度も言ってるが正義/善はそれぞれ、事実/価値判断に分割可能というか、むしろそれが定義に内包されていたりする。正義はあくまでも個人が善を実行するためのいわばOSで善はそれを元に何かをした作業の結果。善はまた道徳、法などに分けられる。責任は正義に対する責任と道徳的責任に分けられる。
2011-04-05 06:41:13@yutakioka 瀧岡さんが仰っていた「病気」について事実判断と価値判断が同じ、というのは、客観的事実(病変)とそれによって(一般的に)引き起こされる「(この場合、患者に自覚される)症状」が、(医学的な?)常識の範疇で重なる場合を指しているということなのでしょうか。
2011-04-05 06:41:56