- hirataitaisho
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只今より、先日急逝した大杉漣氏を悼み #大杉漣で見る日本史 を投下します。 連ついになりますので不快な方はミュート推奨
2018-02-24 00:34:14作中の表記について2 巻末の「作中登場出演作ドラマ1、2、3」「作中登場出演作映画1、2」「作中登場出演作 再現ドラマなど」と「作中登場出演作 実在の人物1、2」をご確認ください。 #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:36:00永治元年(1141)~康治2年(1143)?大杉漣(1)は誕生。 平治元年(1159)大杉漣(1)は兄源義朝と挙兵するが敗走して姿を隠す。(平治の乱) 養和元年(1181)大杉漣(1)は甥源義円と挙兵するが敗走して源頼朝の下へ流れる。(墨俣川の戦い、矢作川の戦い) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:36:56寿永2年(1183)大杉漣(1)は源頼朝から木曾義仲と渡り、挙兵して今度は勝利。(志保山の戦い) 寿永2年(1183) 大杉漣(1)は木曽義仲と京に入京するがやがて不仲になり、平家追討の戦いに敗走する。(室山の戦い) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:37:42元暦元年(1184)大杉漣(1)は後白河院の覚えはよく、京都に戻り、以後は平家追討に加わらず和泉、河内を治めていた。 元暦2年(1185)大杉漣(1)は源頼朝に追討され、源義経と結ぶがやがて捕らえられ斬首された。 #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:38:28享禄元年(1528)~天文9年(1540)?大杉漣(4)は誕生。 天文3年(1534)大杉漣(2)は誕生。 天文4年(1535)大杉漣(3)は誕生。#大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:44:15天文年間後半(1541~1555)~?弘治年間(1555~1558)大杉漣(4)は斎藤道三、朝倉義景に仕えたとされ、鉄砲の名手だったと伝えられる。諸説あり 天文15年(1546)大杉漣(2)は元服、若い頃は非行に走ったと伝えられる。(尾張のうつけ者) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:44:50天文18年(1549)~天文22年(1553)?大杉漣(2)は姑の斎藤道三と会談、新兵器鉄砲を大量に装備する若者に才気を感じた斎藤道三は「我が息子達はやがて軍門に降るだろう」との「預言」をしたと伝えられる。(正徳寺会談) 天文20年(1551)大杉漣(2)は家督を継ぐ。 #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:45:17永禄2年(1559)大杉漣(2)は尾張を平定した。 永禄3年(1560)大杉漣(2)は尾張に侵攻してきた今川義元の2万~4万の大軍を2千~5千の自軍(諸説あり)で撃ち破る。(桶狭間の戦い) 永禄5年(1562)大杉漣(2)は後の徳川家康と結ぶ。(清洲同盟) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:46:05永禄8年(1565)~永禄11年(1568)?大杉漣(4)は足利義昭に仕えていたが、大杉漣(2)にも仕えるようになる。 永禄10年(1567)大杉漣(2)は美濃を平定、斎藤道三の「預言」が現実となる。この頃に「天下布武」の印を用いるようになり、井ノ口を岐阜と改めた。(歴史上岐阜最盛期) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:46:41永禄11年(1568)大杉漣(2)は足利義昭を奉じて上洛、大杉漣(4)も加わった。 永禄11年(1568)大杉漣(2)は石山本願寺に矢銭5千貫を要求し、やがて数度の停戦を挟む長きの戦いが始まる。(石山合戦) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:48:21元亀元年(1570)大杉漣(2)は浅井長政の裏切りの苦境を、大杉漣(4)の活躍もあり窮地を脱した。(金ヶ崎の退き口) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:48:41元亀元年(1570)大杉漣(2)は徳川家康らと朝倉、浅井軍を破る。(姉川の戦い) 元亀2年(1571)大杉漣(2)は大杉漣(3)に初対面で「饅頭こわい」の「圧迫面接」をするが、大杉漣(3)は見事に応え、大杉漣(2)に気に入られ仕えるようになる。(白井河原の戦い) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:50:53元亀2年(1571)大杉漣(2)は浅井、朝倉の残党を匿う比叡山を大杉漣(4)らに命じて攻撃して3千人余りを殺害した。(比叡山焼き討ち) 元亀4年(1573)大杉漣(4)は大杉漣(2)より坂本城を与えら、また挙兵した足利義昭から大杉漣(2)の直臣となった。(槇島城の戦い、室町幕府滅亡) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:51:14天正2年(1573)大杉漣(3)摂津を平定。大杉漣(2)からこれを与えられ、伊丹城を有岡城とした。 天正2年(1574)大杉漣(2)は伊勢長島の一揆を平定。2万人余りの一向衆を殺害する。(長島一向一揆) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:51:49天正4年(1576)大杉漣(2)は石山本願寺を支援していた毛利水軍と戦うが、敗れた。(第一次木津川口の戦い) 天正4年(1576)大杉漣(2)は安土城を築く。(天正7年完成) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:52:08天正6年(1578)大杉漣(3)は、大杉漣(2)を裏切る。大杉漣(4)の説得もあって、一時は思い止まるがやはり裏切り、説得に現れた黒田官兵衛を軟禁する。(三木合戦) 天正6年(1578)大杉漣(2)は鉄甲船を建造、毛利水軍を撃ち破る。(第二次木津川口の戦い) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:52:33天正7年(1579)大杉漣(4)は大杉漣(2)を裏切った大杉漣(3)を攻めて、これを敗走させた。大杉漣(3)は一族を残して姿を隠した。なお一族を処刑された模様。(有岡城の戦い) 天正8年(1580)大杉漣(2)は長年の宿敵石山本願寺をついに倒す。(石山合戦) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:53:35天正8年(1580)大杉漣(2)は宿老佐久間信盛を追放、家中に大杉漣(4)のような働きをするように命令するが、大杉漣(4)は大杉漣(2)を恐れるようになったと伝えられる。(佐久間信盛折檻状) 天正9年(1581)大杉漣(2)は大杉漣(4)に命じて、京都にて盛大な馬揃えを行う。(京都御馬揃え) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:54:13天正10年(1582)大杉漣(2)は陣中で大杉漣(4)を蹴り倒したと伝えられる。(甲州征伐) 天正10年(1582)大杉漣(2)は京都の宿舎が大杉漣(4)に襲撃される裏切りで、大杉漣(2)は自刃に追い込まれた。(本能寺の変) #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:54:48天正10年(1582)大杉漣(4)は豊臣秀吉に敗れ、敗走中土民に討たれる。また、大杉漣(3)は豊臣秀吉の茶人となる、やっぱり糞だわ。(山崎の戦い、道糞) 天正14年(1586)大杉漣(3)は死去。 #大杉漣で見る日本史
2018-02-24 00:55:47明暦元年(1652)大杉漣(5)は司馬遷「史記」と出会ったことで若い頃の非行を改め、日本の歴史を調べ始め本人の死後も編纂は続けられた。(大日本史、水戸学) 万治元年(1658)大杉漣(5)は妻を亡くし、以後正室を持たなかった。 万治2年(1659)大杉漣(6)は誕生。 #大杉漣で見る日本史
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