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Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
フォロワーさんからの課題、「推しの天皇三人について論述せよ」のついての回答。ひとまず二人の天皇について述べていきます。今からTLを埋めることになりますが、ご容赦ください。
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淳仁天皇(第47代天皇 生没:733年~765年 在位:758年~764年) 諱は大炊。舎人親王の第7子。母は当麻山背。父の舎人親王は天武天皇の皇子であり、大炊王は天武天皇の二世王(孫王)に当たる。大炊王が誕生した時の天皇は聖武天皇で、聖武は天武の三世(曾孫)だった。
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舎人親王は一品(皇親に与えられる最高の官位)・知太政官事(太政大臣の代わりに置かれる太政官の長官)の重職にあったが、大炊王が数え3歳の時に没したため、大炊王は父の恩恵を受けることができず、天皇の孫でありながら官位を授かることはなかった。
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大炊王は本来ならば注目を浴びる存在ではなかったが、藤原仲麻呂の長男真従の未亡人粟田諸姉を娶り、仲麻呂の田村第で暮らすようになったことで、彼の運命が大きく変わる。
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天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御した。当時の天皇は聖武の第一皇女である孝謙天皇だったが、独身の女帝であったため、彼女の代で天智天皇―天武天皇・持統天皇―草壁皇子―文武天皇―聖武天皇と続いてきた皇統が断絶することが確定的だった。
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そこで聖武は遺詔で新田部親王(天武天皇の皇子。母は藤原鎌足の娘である五百重娘)の子の道祖王を皇太子として定めた。
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だが、聖武亡き後「天皇家の長」となった皇太后藤原光明子と連携して専権体制の確立を目指す藤原仲麻呂は、道祖王を廃して自身の長男の未亡人を妻に持つ大炊王を皇太子として立てることを画策する。
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天平宝字元年(757年)、孝謙天皇は「聖武天皇の遺詔」に基づいて道祖王の廃太子を決定し、大炊王を新たに皇太子として冊立した。大炊王の立太子は孝謙天皇の勅によって行われたものの、皇太后光明子と権臣仲麻呂の意向が強く働いていることは明らかだった。
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史上初の女性皇太子から天皇に即位した孝謙女帝は、自身の皇位の正統性を草壁皇統意識(天武天皇と持統天皇の双方の血を受け継いだ草壁皇子の子孫こそが天皇家の正統であるという意識)に求めていた。その彼女が大炊王を自ら進んで皇太子として選んだとは私には考えられない。
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大炊王の父である舎人親王は、天武天皇と新田部皇女との間に生まれている。新田部皇女は天智天皇の皇女であり、大炊王は天武天皇の孫であると同時に天智天皇の曾孫でもあるのだ。草壁皇統意識を強く意識する孝謙にとって大炊王は系譜上脅威となる存在である。
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天皇大権を掌握する母の皇太后と権臣に押し切られて孝謙は大炊王を皇太子として立てたが、彼女の大炊王に対する敵意はこの時から芽生えていたであろう。
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官位の無い一介の王であった大炊は、権臣藤原仲麻呂の「婿」となることで皇太子の地位を得た。そして天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇の譲りを受けて、ついに天皇に即位する。淳仁天皇である。
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淳仁天皇への譲位に孝謙太上天皇が強い不満を持っていたのは、淳仁の代始改元が行われなかったことからも容易に想像がつく。
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元明天皇が元正天皇に譲位して以来、禅譲による即位と同日に改元を行うのが通例となっていたが、淳仁の即位と同日に改元が行われなかったのは、明らかに孝謙がそれを拒否したからであろう。
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「天皇家の長」である皇太后藤原光明子と権臣藤原仲麻呂に支えられて即位した淳仁であったが、孝謙太上天皇が自分に対して強い不満を持っていることを知って粛然としたであろう。結局、淳仁の在位中に改元が行われなかった。これは彼の王権が危ういものであり、その治世が短期で終わったことを物語る。
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孝謙太上天皇が強い不満を抱いていることを知った藤原仲麻呂と淳仁天皇は彼女を懐柔しようと草壁皇統の顕彰を行う。
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淳仁即位の日、孝謙太上天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、皇太后藤原光明子に「天平応真仁正皇太后」という中国風の尊号が奉呈され、8月9日には亡き聖武天皇にも「勝宝感神聖武皇帝」の尊号と「天璽国押開豊桜彦尊」の和風諡号を贈り、さらに草壁皇子に「岡宮御宇天皇」の尊号を贈っている。
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これらの措置は仲麻呂自身の顕彰と表裏一体であったが(同月25日、仲麻呂に「恵美押勝」の尊号が与えられている)、孝謙としては不愉快ではなかったであろう。仲麻呂と淳仁は孝謙との妥協に腐心していたのである。
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しかし、天平宝字3年(759年)、淳仁の父である舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号が贈られたことで、孝謙と仲麻呂・淳仁の関係はさらに拗れてしまう。舎人親王に皇帝号が追贈されるということは、舎人親王が草壁皇子と同格になり、草壁系から舎人系に皇統が移ってしまうと孝謙は意識したのであろう。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
舎人親王への皇帝号追贈は皇太后光明子の発案であり、淳仁は光明子から話を持ちかけられた時に孝謙にその可否を相談しているが、孝謙は辞退するように命じている。明らかに孝謙は、自身の立場の正統性を揺るがしかねない舎人親王の顕彰に反対だったのである。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
結局、仲麻呂・淳仁と孝謙の妥協を求める光明子が淳仁に命じて舎人親王への皇帝号追贈は行われた。孝謙は光明子の決定を受け入れたわけだが、内心穏やかではなかっただろう。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
さらに、舎人親王への皇帝号追贈を発表する淳仁の詔勅で、彼が「前聖武天皇の皇太子として天皇に即位した」とその皇位の正統性を主張したことにも怒りを抱いたであろう。聖武天皇の皇太子として即位したのは孝謙であり、淳仁の主張は孝謙の正統性を否定するものである。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
奈良時代の太上天皇は天皇と同格であり、天皇の後見である。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
孝謙太上天皇は淳仁天皇に舎人親王の尊号辞退を求めたが拒否され、さらに淳仁天皇が「聖武天皇の皇太子」として即位したと皇位の正統性を主張したことによって、彼女の立場は二重に否定された。草壁皇統意識を強く抱く彼女のプライドは深く傷ついた。
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417
この段階で、孝謙の仲麻呂・淳仁に対する敵意は、押しとどめることができなかったであろう。それに仲麻呂・淳仁が気づいていたかどうか。破局の日は近づいている。
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