細谷十太夫直英のこと

「からす組」(衝撃隊)細谷直英の生涯が気になったので調べたのを整理しがてら適当につぶやいたのでまとめました。
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銅折葉 @domioriha

アップロードが一向に終わらないので、最近調べててめっちゃ面白いと思った、細谷十太夫直英の話をする。するったらするからみんな聞くように。

2018-03-01 21:51:59
銅折葉 @domioriha

細谷十太夫直英。会津戦争白河口の戦いやその後の旗巻峠の戦いで活躍し、からす組と呼ばれた「衝撃隊」を率いて戦った人物。このあたりが有名なので子母沢寛とか大佛次郎が小説にしている。舞台になったり漫画になったりもしているので知ってる人には有名だと思う。

2018-03-01 21:54:12
銅折葉 @domioriha

幕末から明治時代に活躍した人物で、仙台藩の大藩士の息子に生まれた。両親を早くに亡くして祖父母に引き取られるが、あまり養育に熱心では無かったそうで寺に預けられ寺小姓として育つ。元服後は家督を継ぎ、仙台藩に出仕した。

2018-03-01 21:55:33
銅折葉 @domioriha

この後、一時京都に出て活動などをする。芝居小屋で仙台藩を馬鹿にした演目があるけしからんと大暴れして取り押さえられあえなく仙台に送り返されるなど微笑ましい活動をしていた。その後、幕末の動乱を前に藩内の様子を調べるべきと進言してその活動を任される。

2018-03-01 21:57:59
銅折葉 @domioriha

この探偵方の活動をするうち、細谷は多くの遊女ややくざの親分、侠客などと知り合い、相当親しくなったようだ。その後、戊辰戦争が起こり、江戸城が無血開城されるなどして、いよいよ東北にも新政府の軍が迫ってきた。

2018-03-01 21:59:45
銅折葉 @domioriha

仙台藩には星恂太郎が主導した西洋式訓練の軍隊、額兵隊が存在したが、いかんせん大半は装備も古く士気も低く、業を煮やした細谷は自ら名乗りを上げて侠客ややくざ者を集め、「衝撃隊」を結成する。ならず者集団の集まりではあったが、度胸と荒事にはめっぽう慣れた彼らは予想外の活躍をした。

2018-03-01 22:01:51
銅折葉 @domioriha

衝撃隊の活動は基本的に夜間。官軍への夜襲が中心だった。夜に紛れるため全身を黒ずくめに装い、長脇差を抜き放ち忍び寄ってめったやたらに斬り込む戦術で、三十数回の夜戦を繰り返し全てに勝ったというから恐ろしい。

2018-03-01 22:03:48
銅折葉 @domioriha

細谷の羽織にあった三本足のカラスの刺繍と、その真っ黒な姿から、彼らは自然と「からす組」と呼ばれるようになり、「細谷鴉」はその名を轟かせた。「細谷鴉と十六ささげ なけりゃ官軍高枕」などという歌が後年に残された。 このあたりは明治33年になって細谷自身が口演したものが記録にある。

2018-03-01 22:06:11
銅折葉 @domioriha

また、細谷は実際に鴉を飼っていたそうで、この鴉も非常に賢く、ひどく細谷に懐いていたものであったそうだ。(これも本人が述懐している

2018-03-01 22:07:14
銅折葉 @domioriha

一躍有名になった細谷とからす組だが、結果として戦争の表舞台に引き出され、夜襲で戦果を上げると言うばかりでは許されなくなった。それでも犠牲者を出しながら白河口や旗巻峠でも活躍したものの、仙台藩は降伏。細谷は一転お尋ね者となる。

2018-03-01 22:08:41
銅折葉 @domioriha

しかし細谷は、伝手のある侠客や遊女の元を辿ってひたすらに逃げ、逃げまくった。先述の細谷の回顧録は、大半がこの時の逃亡録である。 また、これに前後して細谷は仙台に遅れてやってきた榎本艦隊に物資や資金を運び込み、仙台での戦闘を避け函館へと向かう連絡役を務めている。

2018-03-01 22:10:22
銅折葉 @domioriha

ここで榎本艦隊と合流した中には、遙か京都から転戦を続けてきた新撰組の斎藤一(山口二郎)や土方歳三がいた。また、ついに仙台では戦うことを許されなかった星恂太郎と額兵隊の半数もここで榎本艦隊に合流し、函館へと向かう。彼らは五稜郭まで戦い抜いた。

2018-03-01 22:11:51
銅折葉 @domioriha

一方の細谷は明治2年まで逃げ続け、ある豪商から調達した1000両をもって衝撃隊の面々にくばり隊を解散させた。しかしこの後の細谷の人生をみる限り、からす組の侠客たちは生涯細谷を慕っていたようだ。このあたりの如才のなさもすごいものを感じる。

2018-03-01 22:14:47
銅折葉 @domioriha

やがて戊辰戦争も終結する。細谷自身も最後には捕縛され死を覚悟するが、意外なことに処刑はされなかった。明治3年。細谷は北海道の開拓を行うため日高沙流郡へと向かう。この時三男の辰三は小杉家に養子に出された。(この小杉辰三は後の神戸製鋼所の基礎を作る人物である)

2018-03-01 22:16:42
銅折葉 @domioriha

沙流郡での開拓を始めた細谷は、函館で生き残った額兵隊の隊士を迎え入れている記録がある。明治5年に細谷は北海道開拓長の吏員に正式採用。前後して戊辰戦争の大赦が行われている。榎本武揚の勧誘があったという話も。

2018-03-01 22:18:25
銅折葉 @domioriha

この後、いつまで北海道にいたかははっきりしないが、次に細谷の名が出るのは明治10年の西南戦争である。川治利路指揮下の別動第三旅団のなかに、陸軍少尉として細谷の名が見える。宮城にあったハリストス正教会の士族や(藩士時代の一時期、布教に協力していたらしい)侠客たちと共に参戦した。

2018-03-01 22:21:00
銅折葉 @domioriha

西南戦争では警視庁所属の形で佐敷水俣の戦役に参加。日々繰り返される激戦の中、夥しい死傷者を出す中で本人も負傷した記録が残されている。 その後、戦争終結の明治11年になって宮城県属になり野蒜港の開港に寄与していることから、大きな負傷ではなかったようだ。

2018-03-01 22:23:34
銅折葉 @domioriha

明治13年には県を辞して牡鹿郡の大街道開墾長へ就任。以後7年ほどを開墾に従事する。そしてこれと並行して明治15年、今度は北海道幕別町の開墾の記録の中に細谷の名が見える。実際に開墾に携わったのは別の人物であることから、どちらかというと事務的な立場だったようだ。

2018-03-01 22:25:37
銅折葉 @domioriha

明治21年。幕別町の漁業権を一括して買い取り漁業をはじめようとした江政敏という人物の代理として細谷の名が見える。江のやり方は現地の人々の反発を招いたようで、後にその不正を訴えられて訴訟を起こされる。これに先立つ明治24年、細谷は江の代行を辞して宮城に戻っている。

2018-03-01 22:27:29
銅折葉 @domioriha

この訴訟の記録が明治25年頃のものとして残されている。江は自分の不正を糾弾される中で、細谷が資金を誤魔化したり清算を済まさず行方を眩ませたのだと弁明しているが、細谷は宮城からこれについて整然と反論し、証拠の書面などを提出している。結果的に江は漁業権を失ったようだ。

2018-03-01 22:29:11
銅折葉 @domioriha

さて、これでようやく落ち着いたか思われた細谷の人生だが、なんと明治28年の日清戦争に、軍夫千人長として参加している。この時細谷55歳(生年がはっきりしないため50歳説もある)。軍夫とは兵士では無く物資輸送の輜重などを行う雇い人夫だが、実際は武装した立派な戦力だった。

2018-03-01 22:31:12
銅折葉 @domioriha

軍夫たちの結束の中「仙台義団」などを結成し、内地とやりとりした記録が残っているが、このへんはまだ出典の書籍を未精査なので後に譲る。からす組時代から親交のある侠客も参加したとも言われるらしい。 ともあれ細谷は日清戦争を戦い抜き、日本の勝利と共に帰国する。

2018-03-01 22:33:03
銅折葉 @domioriha

明治30年。榴ヶ丘天満宮の額兵隊・見国隊戦死弔魂碑を、額兵隊の生き残りの遠藤陸郎、荒井悟らと共に祀る。明治33年には先述した波乱の生涯を語る機会を持ち、その記録は 矢野顕蔵「戊辰の人物」に残され、その語り口のままに読むことができる。

2018-03-01 22:37:28
銅折葉 @domioriha

明治36年。細谷は西有穆山禅師に師事し、青葉区子平町にある龍雲院の僧となる。龍雲院は『海国兵談』で有名な江戸三奇人のひとり、林子平を弔う寺であったが、海防を唱え幕政に容喙した林のために荒れ果てていた。若くより林子平を師と仰いでいた細谷は、その復興に尽力する。

2018-03-01 22:43:10
銅折葉 @domioriha

あるいは、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争と多く先に死んでいった同輩たちの菩提を弔う意識もあったのかもしれない。晩年の細谷は鴉仙と称し、戒名にも鴉の名が刻まれる。明治40年、日露戦争の終結を見届けたかのように亡くなった。享年68歳(あるいは63歳)。

2018-03-01 22:45:24
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