3/21 「山本勘助のすべて」を読んだ気づき。

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日光81 @nikko81_fsi

だん。餐場氏から入嗣した十左衛門以外の山本勘助の家の情報の出処がハッキリした。そゆことね。真田昌幸と真田与右衛門に近い状況を想像。 pic.twitter.com/iKcbriS5sM

2018-03-21 16:06:54
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日光81 @nikko81_fsi

2014年に真下家所蔵文書のお話を聴いたとき(arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/20…) に、東三河戦国史愛好会代表鈴木氏がお話になった内容といわゆる真下家所蔵文書や沼津山本家に伝わる系図類との齟齬がある点が気になってたんだよね。今回その鈴木さんが自費出版で本をまとめられた。

2018-03-21 16:36:57
日光81 @nikko81_fsi

沼津山本家が伝える、沼津山本家四代、山本菅助晴方による「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」によると、初代菅助の実子で長篠で討死した二代目山本菅助は「幸房」と伝わるが、同じく初代菅助実子でその二代目菅助の弟と思われる人物の末裔が伝える史料には、長子信供、次男信倶とあるのだそう。

2018-03-21 16:40:31
日光81 @nikko81_fsi

この信倶は武田滅亡後北条に与し、山中城に在陣するも負傷しながらも逃げ延び、父祖の地である三河までたどり着き、新城市黒田に居を構えたという。さらに下の弟、善左衛門は武田時代の知行地である北杜市高根に戻って家を残したとか。訪問しましたが立派なお宅。arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/20…

2018-03-21 16:45:46
日光81 @nikko81_fsi

二代目菅助の諱甲斐国志が「信供」と伝えているけど、どちらが先かはわからない。少なくとも新城に落ち延びた信倶やその子正平が残した由緒書には諱は明記されていない。ただ、武田家の「信」の一字拝領ルールから考えると、長子たる二代目菅助は、「信○」を名乗っていても不自然ではないかな。

2018-03-21 16:57:16
日光81 @nikko81_fsi

さて二代目菅助信供。長篠合戦時20歳。ということは、後に山中城に在陣した助次郎信倶と善左衛門が実在したとして(沼津家史料には見当たらず)かなり幼かったと推測できる。一方、初代勘助の娘は饗庭十左衛門に嫁いでいるから二代目菅助と同じくそれなりの年代、二代目の姉か、年の近い妹だったか。

2018-03-21 17:04:31
日光81 @nikko81_fsi

二代目菅助と同じく長篠で討死した真田源太左衛門信綱も、長子与右衛門がいるにもかかわらず若年だったため、残った昌幸が真田家を相続。同じように山本家でも実子男子が降りながら、おそらく即戦力を求めた勝頼の意向もあって、饗庭氏から入った十左衛門が山本家を相続したんだろうな、なんて考えた。

2018-03-21 17:07:01
日光81 @nikko81_fsi

ということは助次郎信倶、善左衛門は実子でありながら、山本家を継げず・・・助次郎の子利平は大坂の陣に大坂方として出陣、と同家の記録にあり。残党狩りを何とか生き延びたらしい。ということは真田信繁と会ったのかな?武田の縁で取り立ててやったりしなかったのかね。

2018-03-21 17:10:58
日光81 @nikko81_fsi

同家には信倶、利平の由緒書きのほか、利平の孫理左衛門が高野山金剛峰寺実相院から受けた位牌証文や、禁裏典薬寮頭若松駿河、村松主膳連名の書状があるそう。薬つくって生計立ててたの?しかも朝廷に納品?

2018-03-21 17:15:24
日光81 @nikko81_fsi

この新城の山本家は先代が熱心にいろいろ研究したのもあって、碑を立てたりされてる様子だが、肝心の当時の史料が由緒書2点ということで厳しい。山本家を相続してないから初代菅助の家伝文書はないんだろうけどさ。善左衛門系統の甲斐高根の家は蔵破りに遭って残っている遺品がないらしいし…

2018-03-21 17:23:08
日光81 @nikko81_fsi

お、山本信倶、武田滅亡時に、あの丸馬出のある駿河深沢城にあって、駒井右京配下だったらしい。だからそのまま北条領に逃げ込んで仕官を求めたのか。なるほど。。。。

2018-03-21 17:57:16
日光81 @nikko81_fsi

ちなみに新城の山本家の由緒書には、「道喜二男助次郎、北条氏政ニ付而天正十八年小田原合戦之時箱根山中ノ城ニ而討死三十一歳也」とあるので、逆算すると1559年生まれ。長篠時は十六歳ってことになります。うーん、初陣しててもおかしくないけど、してなくてもありか。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2018-03-21 17:26:45
日光81 @nikko81_fsi

あと仕官のくだり。「伊原安房守ゟ甲斐之小山田備中へ添状遣し候て、古備中信玄へ申上被召出」とあり、よくある板垣駿河の仲介ではなく、小山田備中としているのが興味深い。というか、後に真田弾正らとともに川中島攻略で同心していることを考えると、小山田備中が最初から取りついでいたほうが自然。

2018-03-21 17:50:49
日光81 @nikko81_fsi

おもしろいのは、沼津も新城も、初代菅助の諱を「晴幸」と認識していること。さらに「幸」の字にルビを振って、ヨシと読ませている。初名貞幸(サダヨシ)改名し晴幸(ハルヨシ)。この文書がホントに当時のものかどうか、としたらその目的は?というのはあるけどわざわざルビを振る意味はなんだろう。

2018-03-21 17:33:42
日光81 @nikko81_fsi

山本信倶・利平の残した由緒書。年代は書いていないが、初代菅助の孫とすると、もし文書としての信頼性が担保できるなら、甲陽軍鑑や甲斐国志以前に「晴幸」諱を記した史料になるんだけどな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2018-03-21 17:55:07
日光81 @nikko81_fsi

「晴幸」に疑問符がついているのが、「将軍義晴の偏諱である「晴」の字を、更に臣下に与えることは社会通念上ありえない」という指摘だと思うんだけど、割と将軍をいいように利用するフシのある御屋形様(笑)だったら、の社会通念覆してやっちゃわないだろうか。家臣団マジかよとか言ってて。ないか。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2018-03-21 18:01:44