- nikko81_fsi
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第九回恵林寺講座。御一門衆(2) 武田義信・勝頼を中心として。信玄公とともに行動する義信公。争いの絶えなかった武田家だからこそ、近しいところで育てたかったのでしょうが・・・むしろ、早いうちに高遠諏方家当主として、高遠城に在った勝頼公のように、外で経験させたほうがよかったのかもな…
2018-03-25 22:39:39信玄・義信不和の初見は天文24年、信玄公34歳、義信公17歳。反抗期といえばそうだけども・・・信玄公もお怒りと言うわけではなく、「困惑」している様子や義信事件直後も上州小幡氏に父子の関係は別条ないと記しているあたり、なんとか義信公を嫡子として存続させようとした感じを受けました。
2018-03-25 22:44:56そして、なるほど…と思ったのが、義信公の戒名。よく「籌山良公」の「籌」がはかりごとと読めることから、謀叛人のレッテルを死してなお与えた…などといわれますが、歴代武田氏当主の「○山」という戒名は歴代当主に準じた扱い。「籌」の字があるのは珍しくもないそうで。
2018-03-25 22:50:07義信公の葬儀も武田家に関わる高僧が参加。恵林寺住職の古川老師曰く、信玄公の「機山」の「機」は当意即妙、臨機応変、自由自在といった別格の働きをされた方にふさわしい字だそうで、「籌」の字も禅の世界では戦わずして勝つという狡賢さは褒め言葉とされているそうで先代譲りのよい戒名だとか。
2018-03-25 22:54:41謀叛人のレッテルどころか、歴代武田家当主の扱いを受けた義信公。今川氏に入魂だったご本人様はともかく、信玄公としては最後まで丁重に息子を扱ったのではないか、と思わせられました。と考えると、義信公自ら自害なされたのではないか、という思いに至りました。
2018-03-25 22:58:26今川氏に入魂なのを困惑しつつも、足利将軍家の通字を頂き、三管領に准ぜられるまで大切に育てようとされたんだな、と思いますね。「○山▲公」の戒名は、▲の部分は敬称として省略されている、というのは機山玄公が実は機山信玄ということですが、籌山良公は籌山玉良ということも知りました。よき名。
2018-03-25 23:15:21義信公、将来は信濃一国を任される可能性もあったんだそうですね。信濃を統べる義信公。武田家の内訌を鑑み、大事に大事に懐で育てられたが故のアクシデントかなぁ。それかそれだけ今川氏の奥様に入魂だったんでしょうかね。うむむ。
2018-03-25 23:19:25ただ、信玄公も家督を譲らないことの、義信公の焦りをどう思ってたんだろうな、というのはありますよね。父子の関係を忘れ・・・が、天文24年だとすると、かなり初期からの今川氏をめぐるすれ違いが、信玄公としても家督を譲る決意を鈍らせた要因にもなるのかもしれないですね。
2018-03-25 23:22:03そうそう、信玄公の氏真評。信玄公って国主としてこうあるべきという価値観がけっこう強くて(自身に対してもストイック)それがゆえに、不安になったんだろうなと思うんですよね。氏真評の書状はよく「おまいうwwww」と言われますが、そうじゃないんすよ。
2018-03-25 23:25:31さて、続いて勝頼公。高遠諏方家を継いでも、義信公に準じる高い扱いであり、上伊那郡司も任される立場。後に高遠玉砕の折のことを考えると、諏方勝頼公治世がよかったものだったんだろうな、と思うんですよね。
2018-03-25 23:30:06ただ、通字「信」を与えられないという義信公に対する遠慮や、足利義昭に一字拝領と任官を求めないと、正式な後継者として認められにくかったあたり、能力的には認めていても一度諏方家に出したことによる、家中の扱いが難しかったことを思わせられますね。
2018-03-25 23:31:51大事に育てた義信公が反抗し、外に出したことによってたくましく成長した勝頼公を後継に据えるのが難しかった・・・ということを考えると、後継に悩む信玄公の悩みの深さを思って余りあります。
2018-03-25 23:34:31あと、仁科信盛について。信玄公にとっての信繁と勝頼公にとっての信盛が重なるようでおもしろかったですね。信頼できる弟に大きな権限。さらに従兄弟信豊もあって、この三人の仲のよさを想像します。そうそう信盛って越中方面の外交を担当し、牧之島城代馬場美濃守の後継なんですね。
2018-03-25 23:38:19