佐藤正美Tweet_20180316_31

0
佐藤正美 @satou_masami

「思い出のないところに故郷はない。確乎たる環境が齎(もたら)す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉の孕(はら)む健康な感動はわからないのであろう」(小林秀雄、「故郷を失った文学」)。

2018-03-17 10:21:52
佐藤正美 @satou_masami

「何らかの粉飾、粉飾と言って悪ければ意見とか批評とかいう主観上の細工をほどこさなければ、自分の思い出が一貫した物語の体をなさない、どう考えても正道とは言い難い、という風に考え込んでしまう」(小林秀雄、「故郷を失った文学」)。

2018-03-17 10:24:39
佐藤正美 @satou_masami

「故郷」は、はたして、私が子どもの頃に感じていた風土なのか、、、たぶん、そうとうに変形されているかもしれない。それでも、私が「故郷」に帰って、その風景のなかに立ったとき、私は なんらの思考の手助けなしに「故郷」を肌で感じることができる。

2018-03-17 10:28:35
佐藤正美 @satou_masami

私は、「故郷」に もう戻れない――その村で生活している人たちから観れば、私はセンチメンタルな旅人にすぎない。私の「故郷」は、つねに「思い出」のなかで蘇生されるだけです。

2018-03-17 10:30:51
佐藤正美 @satou_masami

今の私にとって、「故郷」は、ひとつの風景画です――その意味では、私は、セザンヌの描いた「山」(或る展覧会で作品を直に観ました)が ひどく気になっています。あの単純性は、それでいて、自然の即物性を伝えていることを感じる。

2018-03-17 10:33:35
佐藤正美 @satou_masami

セザンヌは、きっと、自然を真っ直ぐに観て描いたのでしょうが、私の記憶のなかの自然は明らかにセザンヌが単純化した自然の即物性を帯びています。私がセザンヌの「山」に仰天したのは、それが たとえば 私が自然のなかに立ったときに感じる「空気(におい)」を伝えているという点です。

2018-03-17 10:37:01
佐藤正美 @satou_masami

セザンヌの風景画には、人の気配はないけれど、自然の空気(におい)は確実にある。そして、それが、私の「故郷」の「思い出」と重なるのです。

2018-03-17 10:38:23
佐藤正美 @satou_masami

私の過多な感性が「故郷」の自然のなかで生い立ったのかどうかは私にはわからないけれど、もし、私が「故郷」を持たなかったら、私は感性を持てあまして確実に絶えていたでしょうね。

2018-03-17 10:40:32
佐藤正美 @satou_masami

もし、私が、今、「故郷」のなかで生活していれば、「故郷」は「思い出」にはならなかったでしょうし、今の精神状態とは異(ちが)う精神状態になっていることは確かでしょうね。

2018-03-17 10:42:14
佐藤正美 @satou_masami

「故郷」は都会人のセンチメンタルな思いじゃない、「どうしようもない私が歩いている」(種田山頭火)。その「どうしようもない私」にも「思い出」はある。思考で概念を作ることは簡単だけれど、「思い出」を思考で作ることはできない。

2018-03-17 10:44:08
佐藤正美 @satou_masami

私は、大学生の頃、ロシア文学・フランス文学および西洋哲学などの書物を読み漁ってきて、他人の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに故郷を見失っていた、まぎれもない「文学好きの軽薄な青年」でした。唯々、モヤモヤとした「正義感」「憤怒」のなかで燻(くすぶ)っていました。

2018-03-25 04:07:23
佐藤正美 @satou_masami

他人の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに故郷を見失っていた思想とは、実感にもとづいて咀嚼された思想じゃないということ、「借り物の」思想だということ。

2018-03-25 04:09:52
佐藤正美 @satou_masami

青年が――なにがしかの行動をしたいと思いながらも、なんら社会的な座標を持たない青年が、世間を観て――「正義感」「憤怒」に揺さぶられないほうが奇怪なように私には思われます。

2018-03-25 04:12:15
佐藤正美 @satou_masami

「実感」とは いかなる状態かと言えば、外(そと)に存在する巨大な思想を自分の中に取り込もうという戦い――自分が立っている時空の中で、自分を実験台にした戦い――ではないかしら。

2018-03-25 04:14:53
佐藤正美 @satou_masami

テクノロジーが便益を齎す社会のなかで、「思想」は なにかしら衣裳のようになってしまって着用するには古着になって、思想史の陳列台に並べられて批評の対象にしかなっていないのではないか、「人間的形式を与えるのはもう無用」だと思われているのではないか。

2018-03-25 04:18:23
佐藤正美 @satou_masami

そして、われわれは、現代社会において―― social media のなかで、自分を語るに忙(せわ)しない現代において――自分が向きあう「思想」の存在を感じていないのではないかしら。

2018-03-25 04:20:39
佐藤正美 @satou_masami

「歴史はいつも否応なく伝統を壊すように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」(小林秀雄、「故郷を失った文学」)。

2018-03-31 13:57:35
佐藤正美 @satou_masami

19歳の頃から文学の書物を読んできて64歳の私が「成熟した心」を持ち得たかと自問すれば、はなはだ怪しい。そして、私は「ウェルテル」を若い頃に読んで夢中になったし、40歳代で読み返して夢中になりました。64歳の私は、その書を敢えて封印しています――というのは、読めば夢中になるから。

2018-03-31 14:02:07
佐藤正美 @satou_masami

私は、もうすぐ65歳になります。文学を絵空事として嗤って軽蔑しても尋常とみなされる世間並みの「大人」です。しかし、文学には、単に世情に通じていることでは掴みきれないsomethingが「実存している」――そして、それが私を惹きつけるし苦しめる。

2018-03-31 14:05:33
佐藤正美 @satou_masami

私は、若い頃にも文学に揺さぶられていたけれど、文学作品を読んで共感を覚えても、自分を凝視して自分を疑うという切迫感など持っていなかった、作家に感情移入して酔ったにすぎない――私の皮膚と社会とのあいだには文学作品という案内書(指南書)が挿(さしはさ)まれていたにすぎなかった。

2018-03-31 14:09:27
佐藤正美 @satou_masami

私が文学を自分の問題として実感できるようになった時期は40歳以後であって、私が仕事(「モデル」の規則作り)に真っ向から取り組んだ折りです。文学を捨てる世間並みな年令で私は文学を「正気で」読めるようになりました。

2018-03-31 14:12:14
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニアを職にしている(コンピュータ技術、ロジックを使う仕事に就いている)私は、西洋的思考(西洋流の論理学・哲学)に慣れています――しかし、それは西洋人の持つ西洋的発想法 [ 外的事物に感応する感性・視点・表現 ] ではないでしょうね。

2018-03-31 14:16:24
佐藤正美 @satou_masami

そうかと言って、私の精神は、古代の日本人精神を核にして西洋的思考が単純拡大された状態でもない、一種奇っ怪な混和物です。

2018-03-31 14:18:27
佐藤正美 @satou_masami

私は、自分の仕事において、つねに否応なくロジックの伝統のほんとうの発見に近づこうとしていますが、いっぽうで、私の精神は、はたして、「否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟」してるのかと自問すれば、懐疑を抱かざるを得ない。

2018-03-31 14:21:24
佐藤正美 @satou_masami

その懐疑は「伝統精神を失ったわが国の青年たちに特殊な事情、必至な運命」なのか。事実、「古事記」に較べて「聖書」のほうが私を魅惑する。そういう私の状態が、たとえ、年令に相応する「実感」を底にしていると言っても、観念的な青年的性質が促した所為と較べて いかほど「成熟」しているのか。

2018-03-31 14:25:47