大岡越前守忠相の生涯をまとめてみた

ドラマなどで有名な江戸時代中期に活躍した、大岡越前守忠相の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1752年2月3日(宝暦元年12月19日)江戸時代中期の幕臣・大名で享保の改革を町奉行として支えた大岡忠相が亡くなりました。享年75歳。 越前守だった事と「大岡政談」や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では「大岡越前守」としても知られています。 #大岡越前 #南町奉行 pic.twitter.com/4F9k1bmTs8

2018-02-03 22:02:53
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1677年(延宝5年)大岡忠相は1,700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれます。1686年(貞享3年)同族の1,920石の旗本・大岡忠真(大岡忠右衛門)の養子となり、忠真の娘と婚約。 1687年(貞享4年)5代将軍・徳川綱吉に初めて御目見します。 pic.twitter.com/cBzGIBvdCE

2018-02-03 22:56:44
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1696年(元禄9年)には従兄にあたる大岡忠英の事件に連座して閉門処置となりますが、翌年には赦され、1700年(元禄13年)養父病死により家督と遺領を継ぎ、忠世家3代当主となります。 綱吉時代に寄合旗本無役から、1702年(元禄15年)には書院番となります。

2018-02-03 22:56:45
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翌年には元禄大地震に伴う復旧普請の仮奉行の1人を務め、1704年(宝永元年)から徒頭、3年後には使番、目付と就任し、幕府官僚として成長していきます。1709年(宝永6年)には嫡男・忠宜が誕生。 6代将軍・家宣の時代に1712年(正徳2年)遠国奉行の山田奉行(伊勢奉行)に就任。 pic.twitter.com/9VBeWX9mra

2018-02-03 22:56:45
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在職中には奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現:伊勢市)と松坂(現:松阪市)との境界を巡る訴訟では、 紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたといわれます。

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当時の紀州藩主で後に将軍職に就任し、忠相を抜擢する吉宗は事実上、一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたといわれています。 山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁が出来たとする巷説は幾つかあるようですが、実際は奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなく、 pic.twitter.com/cSIC8RX0YT

2018-02-03 22:56:46
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後代に成立したものであると考えられています。 また遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なもので、60代で就任する事も多かった町奉行に40代で就任した事も、とりたてて抜擢人事ではないという指摘もあるようです。

2018-02-03 22:56:47
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山田と松坂との境界を巡る訴訟については、紀州藩との境域問題を解決したのは第18代大岡越前ではなく、第10代桑山貞政であると 「山田奉行御役所旧記」に記録されているのですが、これを大岡越前の業績としたのは、享保以降に歌舞伎の題材を狙った創作だとする説もあります。

2018-03-15 22:12:39
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7代将軍・徳川家継の時代の享保元年(1716年)忠相は普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮します。 同年8月には徳川吉宗が8代将軍に就任し、解任された新井白石や間部詮房らの屋敷代にも携わっていました。 1717年(享保2年)忠相は江戸南町奉行に就任。 pic.twitter.com/QVE6El1ed1

2018-03-15 22:12:40
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松野助義の跡役で相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑でした。 坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」だった為、この時に忠相は「越前守」と改めます。 吉宗は享保の改革に着手しますが、忠相は町奉行として江戸の都市政策や評定所一座にも加わり、司法にも携わりました。 pic.twitter.com/W0DsD21Cpj

2018-03-15 22:12:40
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この頃、奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていました。 1719年(享保4年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行っています。

2018-03-15 22:12:42
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市政においては、町代の廃止や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編の為、1718年(享保3年)町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、 1720年(享保5年)町火消組織を「いろは四十七組(後の四十八組)」の小組に再編成しました。 pic.twitter.com/jxw5KuiWXW

2018-04-12 22:27:11
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また瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化されていきました。 1722年(享保7年)下層民対策で設置された目安箱に町医師・小川笙船から貧病人の為の養生院設置の要望が寄せられると、

2018-04-12 22:27:14
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忠相は吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置されました。 また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成します。 pic.twitter.com/fs9MIWgQe5

2018-04-12 22:27:14
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将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言しています。 現在では書籍の最終ページに「奥付」が記載されています。これは少数ながら自発的に奥付を付けていた書籍はあったのですが、

2018-04-12 22:27:14
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1721年(享保6年)大岡越前が奥付を義務化させた事により一般化したものだそうです。 また、在任中の1722年(享保7年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建の為に地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などにも携わっています。

2018-04-12 22:27:14
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1736年9月16日(元文元年8月12日)忠相は寺社奉行となります。 寺社奉行時代には、1738年(元文3年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、分類整理します。

2018-04-12 23:17:51
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寺社奉行時代には2,000石を加増され5,920石となり、足高分を加え1万石の大名格となります。 寺社奉行職は本来は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例でしたが、足高により就任した忠相の場合は依然として正式身分は旗本のままでした。 pic.twitter.com/aew0Dqfe75

2018-04-12 23:17:51
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奏者番とは幕府の職名で大名や旗本が将軍に謁見する時に姓名や進物を披露し、下賜物を伝達する取次ぎの役の事です。 忠相は大名でなければなれない奏者番を兼帯しなかった為、大名である奏者番を兼帯する寺社奉行の同役達や奏者番達から虐げられたという話が残っています。

2018-04-12 23:17:53
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数年に渡り忠相は、江戸城内で固定の詰所を持たないまま寺社奉行を務めていました。 数年後にこの事態にようやく気がついた将軍吉宗により【寺社奉行の専用の詰め所】が制定され忠相にも控室が与えられます。

2018-04-13 00:05:39
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江戸城内で奏者番には伺候する詰所(控室)が有りましたが、寺社奉行職単独の詰所は用意されていませんでした。 通例では寺社奉行は奏者番と兼帯なので、奏者番の席に伺候していれば良かったのですが忠相は違った為、奏者番の面々は「ここは奏者番の詰所だ」として忠相の立ち入りを禁じたのです。 pic.twitter.com/yR9EuLVEMX

2018-04-12 23:17:54
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さらに1748年(寛延元年)忠相は奏者番を兼任と同時に足高分が正式に加増として与えられます。 三河国西大平(現:愛知県岡崎市)1万石を拝領した忠相は正式に大名となったのです。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて大岡忠相のみです。

2018-04-13 00:05:40
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1751年7月12日(寛延4年6月20日)江戸城西丸へ移り大御所となっていた吉宗が亡くなります。 吉宗の葬儀の諸事手配中に忠相もまた体調不良に陥ります。忠相の病状に関しては1750年(寛延3年)頃から「悪寒」「不快」「腹具合悪しき」「熱気・咽頭痛」などと記録に残っており、 pic.twitter.com/R8FIFgvVA9

2018-04-13 00:05:40
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呼吸器系・消化器系の疾患を患っていたと考えられているようです。 1751年12月19日(寛延4年11月2日)忠相は寺社奉行・奏者番の辞任を願い出ます。寺社奉行辞任に関しては受理されますが、奏者番辞任は認められなかったといわれます。

2018-04-13 00:05:42
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その後は自宅療養していましたが、1752年2月3日(宝暦元年12月19日)忠相は亡くなります。享年75歳でした。 法名は松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。墓所は代々の領地がある神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺に在ります。 pic.twitter.com/jf7xhBDKzE

2018-04-13 00:05:42
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