【偽善も善である】「偽善」と言って責められることのほとんどは「人より余計に善を行っている」「横並びを崩している」ことで責められている。

大事なことなのでもう一回書くと,誰かの行為を「偽善だ」ということは,「偉そうに」「何様のつもり」といった感情表現の一種であり,「誰かが自分より善くなること」への嫉みである。
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渡邊芳之 @ynabe39

「偽善」と言って責められることのほとんどは「人より余計に善を行っている」「横並びを崩している」ことで責められている。だから責められないために匿名の善意を選択するようになる。だからまず「偽善も善」と認めることが大事。

2011-01-17 10:17:57
渡邊芳之 @ynabe39

大事なことなのでもう一回書くと,誰かの行為を「偽善だ」ということは,「偉そうに」「何様のつもり」といった感情表現の一種であり,「誰かが自分より善くなること」への嫉みである。

2011-01-17 17:45:08
渡邊芳之 @ynabe39

偽善が偽善であるためには行為そのものやその結果はとりあえずなんらかの意味で「善」でなければならない。だからなにもないよりは偽善のほうがずっとましである。

2012-04-17 07:26:42

まとめ 渡邉芳之先生ynabe39の善・偽善についてのツイートまとめ なにかが善であるかどうかは「その行為の結果」によってのみ判断されるべきで,行為の動機や目的によって判断されるべきではない。 人のために何かをするのはぜんぶ自分のためである。 「偽善」は「行為そのものの効果は善であるもの」を言うと思います。 「自分の主張が正しいことを証明してくれる犠牲者の存在はありがたい,もっと増えてくれたほうがいい」というのは立場に関係なくそうなのだろう。 前から何度も書いているように私は偽善も善,善でないよりはずっとよいという立場。 3041 pv 7 22