- nikko81_fsi
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孫氏旗。そういや川中島合戦図屏風で、 不侵徐疾 動掠如如 如如林風 山火 って、縦にフレーズごとに区切った 真四角の旗印の孫氏旗を何度か見た気がする。 あと、フレーズごとに単品で書かれたものもある。 あれはそういうことだったかとちょっと納得。
2018-05-13 16:25:38@nikko81_fsi そうだね。『軍鑑』の巻12に、高坂弾正が信玄の小田原遠征を批判して、敵が甲州に侵入したら防ぐことができたでしょうか?という文脈の中で「さて、五百、千とも人数是あらバ、御たてつゝじがさきまで来る敵を、さういなくひきとらせ可申候哉」ってあります。
2018-05-13 16:29:28信虎期に整備された寺の一つに、「法城寺」があるらしい。「氵(水)」を「去」り、「土」と「成」すの義があるといい、信虎期甲府城下町の南限ではないかとの推論。なるほど・・・・調べていくとこんな記事。信虎の上方志向の表れの一端かもな、と思うなど。japanknowledge.com/articles/blogj…
2018-05-13 16:30:21@HIRAYAMAYUUKAIN おおおお、ありがとうございます。漢字を当てると「御館躑躅ヶ崎」ってことなんでしょうか。当時から呼ばれていたかもしれないわけですね。
2018-05-13 16:32:12@nikko81_fsi これは国母地蔵(上条地蔵)を安置した寺ですな。これを保護しないと、国が衰えると考えられていた。信玄が善光寺如来を一時安置したのも、法城寺。甲府城築城に伴い、東光寺近くに移転したが、甲府空襲で惜しくも焼失。国母地蔵がどんな仏像だったかも永遠の謎となった。山梨が衰退してるのは、もしや
2018-05-13 16:33:37@nikko81_fsi そうなんだよ。少なくも『軍鑑』は、孫子の旗とは「四方」の旗で、そこに文字が書かれていたと証言している。現存する孫子の旗とは形態が違うんだ。江戸時代の川中島合戦図屏風は、『軍鑑』をよく読んで考証しているらしく、ちゃんと四方の旗の形態をとっている。これ、あまり知られておらず、たしか
2018-05-13 16:41:12@HIRAYAMAYUUKAIN 今まで何気なしに見ていましたが、ハッとしました。今伝わっている旗は少なくとも信玄の時代に使われたものではなさそうなんですね。『軍鑑』をよく読みこんでいるというのは、それだけ『軍鑑』が江戸時代に浸透していたということとも言えそうですね。
2018-05-13 16:44:51@HIRAYAMAYUUKAIN なるほど・・・「信玄が善光寺如来を一時安置した」というのも武田の治世通じて、重要ととらえられていたってことですかね。国母地蔵、写真や絵画などもないのでしょうか。残念です。
2018-05-13 16:50:38