勝海舟の生涯をまとめてみた

幕末期、江戸無血開城や徳川家の存続に奔走した幕臣・勝海舟の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1899年 (明治32年)1月19日 江戸無血開城や明治維新の一助となった元・幕臣の勝海舟が東京・赤坂氷川の自宅で亡くなりました。享年77歳、脳溢血でした。勝海舟が残した業績の中でも、特に大きなものは江戸城無血開城と日本海軍の発展だといえます。 #幕末 #勝海舟 pic.twitter.com/v03aVBAOQO

2018-01-21 18:59:20
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1823年3月12日(文政6年1月30日)勝海舟は江戸本所・亀沢町で父・小吉の実家・男谷家で誕生します。幼名は幼名・通称は麟太郎と言います。 曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村(現:新潟県三島郡)の貧農出身の盲人でしたが、江戸へ出て盲人に許されていた高利貸しで成功し、巨万の富を得ました。 pic.twitter.com/kc8iwbmTUX

2018-01-21 20:54:38
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銀一は朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗るようになり、銀一は三男の平蔵に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えました。 銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父・勝小吉です。 しかし、小吉は三男だった為、男谷家から勝家に婿養子に出されます。

2018-01-21 20:54:40
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勝家は小普請組という無役で小身の旗本で、1575年(天正3年)以来の御家人でした。系譜上、海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が1752年(宝暦2年)に累進して旗本の列に加わった古参の幕臣だったのです。 pic.twitter.com/xHaAvhPsWr

2018-01-21 20:54:40
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1829年(文政12年)幼少時の海舟は男谷の親類・阿茶の局の紹介で11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の12代将軍徳川家慶の5男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されます。 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、1838年(天保9年)慶昌が早世し、その望みは消えてしまいます。 pic.twitter.com/Vltn4OrHZS

2018-01-31 00:25:03
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同年、父の隠居で海舟は16歳で家督を相続。生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまで本所入江町(現:墨田区緑4-24付近)で暮らしていました。 剣術は、実父・小吉の実家で従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となっています。 pic.twitter.com/qChGWfb50M

2018-01-31 00:25:04
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師匠の虎之助の勧めで禅も学んでいます。兵学は窪田清音の門下生・若山勿堂から山鹿流を習得。 蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りします。 pic.twitter.com/6wBnmHqBFL

2018-01-31 00:25:05
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蘭学修行中には辞書「ドゥーフ・ハルマ」を1年かけて2部筆写した有名な話が残ります。1部は自分用に、1部は売って金を作る為でした。 蘭学者・佐久間象山の知遇も得て、象山の勧めで西洋兵学を修め田町に私塾を開きます。開塾は1850年(嘉永3年)とされていますが、いつなのかはっきりしていません。

2018-01-31 00:25:06
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1853年(嘉永6年)ペリー艦隊が来航し開国を要求されると、幕府老中首座・阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破る事に慎重になります。阿部は海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名から町人に至るまで広く募集し、海舟も海防意見書を提出します。 pic.twitter.com/XQ8HTjObfV

2018-02-03 01:55:58
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意見書は阿部の目に留まり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得た事から1855年(安政2年)3月 海舟は異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、自ら人生の運を掴む事が出来ます。 pic.twitter.com/9SeyUAUVRW

2018-02-03 01:55:59
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同月から洋学所創設の下準備として、3月11日~5月18日にかけて勘定奉行・石河政平と一翁が命じられた大阪湾検分調査の参加を経て、9月29日に海舟は長崎海軍伝習所に入門。 伝習所ではオランダ語が良く出来た為、教監も兼ねて伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めました。

2018-02-03 01:56:00
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この時の伝習生には矢田堀鴻(景蔵)・永持亨次郎らが居ました。 海舟には海軍知識はほとんど無かった為、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がりますが、幕府の期待に応えない訳にも行かず、11月29日に船で長崎へ向かい、以後3年半に渡って勉強に取り組みます。 pic.twitter.com/pPti1PuVba

2018-02-03 01:56:00
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長崎に赴任してから数週間で聴き取りも出来るようになったと本人が語っている為か、海舟は引継ぎの役割から第一期から三期までの足掛け5年間を長崎で過ごします。 この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、1858年(安政5年)に海舟は薩摩を訪れ、斉彬と出会います。 pic.twitter.com/8j1YaOTrl2

2018-02-03 01:56:01
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2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬は江戸で海舟と交流していました。斉彬との交流は後の海舟の行動に大きな影響を与えます。 安政の大獄で推薦者の一翁が左遷されますが、長崎に居る海舟に影響は無く、大老井伊直弼の政治手法や大獄の一因である南紀派と一橋派の政争を批判する余裕を見せます。

2018-02-05 00:15:51
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9月に外国奉行・永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、海舟は永井と水野に宛ててアメリカ行きを希望、2人から了解の返事を取り付けます。 1859年(安政6年)2月17日 朝陽丸に乗って帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教える事になります。 pic.twitter.com/xQNpWD5AOi

2018-02-05 00:15:52
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1860年(万延元年)幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為、遣米使節をアメリカへ派遣。 このアメリカ渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣でした。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされます。 pic.twitter.com/tlahdtzHlF

2018-02-05 00:15:53
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替わって正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断・渡米します。 この時、護衛と言う名目で軍艦を出す事にし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣されました。 pic.twitter.com/vXIg80NMsw

2018-02-05 00:15:53
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品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)閏3月19日(5月8日)にサンフランシスコを旅立ち、品川への帰着は5月6日(新暦で6月24日)旅程は37日で全日数は140日という長期間に渡りました。

2018-02-05 00:15:54
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咸臨丸には軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎・鈴藤勇次郎・小野友五郎などが乗船。 米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が、また通訳のジョン万次郎、木村の従者として福澤諭吉も乗り込みました。 pic.twitter.com/P3pprgQErY

2018-02-05 00:15:54
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咸臨丸での航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃していますが、実際には日本人乗組員は船酔いの為にほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米出来なかったという説もあるようです。 古来、海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われています。

2018-02-05 00:15:55
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それに反発する諭吉の『福翁自伝』には木村が「艦長」海舟は「指揮官」と書かれています。 しかし実際にはそのような役職は無く、上記のように木村が「軍艦奉行」海舟が「軍艦操練所教授方頭取」という立場でした。 アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国したようです。 pic.twitter.com/KbRPbaFrQ9

2018-02-05 00:15:55
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1860年(万延元年)6月24日 海舟は帰国し、蕃書調所頭取助に異動。 翌1861年(文久元年)10月8日 講武所砲術師範となり、天守番之頭格に格上げされますが、海軍から切り離された為、海舟は左遷・海軍からの追放と受け取ります。 pic.twitter.com/P3jFE1KYRg

2018-02-05 00:15:56
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直弼暗殺後に政権を担当した安藤信正・久世広周の元では海軍強化の提案や、ロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず不満の日々を送りましす。 また、蕃書調所での勤務態度は不真面目でさぼってばかりで、頭取古賀謹一郎に任せきりだったともいわれます。 pic.twitter.com/Pdj9RyulvS

2018-02-05 00:15:57
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1862年(文久2年)安藤らが失脚した後に松平春嶽・一橋慶喜ら一橋派が島津久光(斉彬の異母弟)の台頭で復帰。 文久の改革でそれぞれ政事総裁職・将軍後見職に就任します。それに伴い海舟も軍艦操練所頭取として海軍に復帰し、10月に軍艦奉行並に就任。これに先立ち一翁も御側御用取次として復帰。 pic.twitter.com/DrER1QxB1A

2018-02-05 23:37:36
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海舟は一翁や春嶽、その顧問・横井小楠を提携相手として手を組みます。海舟は彼らが主張する公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)の支持者となり、その実現に向け動き出します。 早速、幕府海軍の強化策を話し合う会議も開かれました。 pic.twitter.com/64LWURAbSQ

2018-02-05 23:37:36
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