Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第五章】三角大福・前期(1972~76)田中内閣から三木内閣まで
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戦後政治史はいよいよ1970年代の「三角大福」の時代に突入します。この時代は高度成長の総仕上げ期で、日本が経済大国にのし上がった時代であります。この時代から国民に中流意識が芽生えてきましたね。なお、文中は敬称を一切省略しています。
2011-04-13 19:50:15【バックナンバー1】第一章→ http://bit.ly/fvtVAg (1948年までの戦後のゴタゴタ時代) 第二章→ http://bit.ly/dVnDUO (日本の独立) 第三章→ http://togetter.com/li/113219 (55年体制と日米安保の闇)
2011-04-13 19:50:48【バックナンバー2】第四章→ http://bit.ly/fTLYfh (高度成長) 第四章補足→ http://bit.ly/gEQoJa (子供の視点からの高度成長)
2011-04-13 19:51:111. 田中角栄と三木武夫は、戦後の日本を代表する大物政治家である。ともに古くからの政党人としてのキャリアを積み、実はともに緻密な理論派でもある。さらに権謀術数を巧みに操り、田中は「コンピュータ付ブルドーザー」、三木は「バルカン政治家」と称された。
2011-04-13 19:52:052. 田中は「数の力」を背景に権力の階段を上り、三木は「理論」を武器に頂点に立った。田中も三木もイデオロギー的には似通っており、中道やや左寄りのスタンスで、1970年代初期には両者は盟友の関係にあったことは見逃せない。
2011-04-13 19:52:343. 三角大福の時代と言えば、田中角栄vs福田赳夫の角福戦争が有名であるが、実は主役は田中、三木の2名であったと思う。田中は三木の取込で、総理のポストをものにした。しかしその後、田中は三木を敵に回してしまう。これにより、福田は三木を味方とすることに成功した。
2011-04-13 19:53:044. 田中角栄は言った。「政治のプロフェッショナルは自分と三木武夫だけである」おそらく大平も福田赳夫も中曽根も、田中と三木の老獪な政治力には太刀打ちできまい。田中・三木とも賛否両論ある政治家ではあるが、その力の源泉を少しでも見ておきたいと思うのだ。
2011-04-13 19:53:345. さて、長かった佐藤栄作内閣ののち、1972年7月に田中角栄内閣がスタートする。国民生活は池田・佐藤時代を経て豊かになってきた。しかし佐藤の官僚的かつ閉鎖的な長い政治が続き、国民は田中の登場を大歓迎する。そこで田中についたニックネームが「今太閤」である。
2011-04-13 19:54:046. 田中は高等教育を受けていない。しかし少年時代から頭脳は極めて明晰であったという。おそらく良家の子弟として生まれていたならば、上級国家公務員試験をトップでクリアするレベルの頭脳があったと思う。「コンピュータ付ブルドーザー」と呼ばれるゆえんである。
2011-04-13 19:54:347. 田中といえば「数は力」の言葉が有名であるが、極めて官僚操作術に長けた政治家であった。第二章に示した通り、田中は党人なのに官僚出身者で構成される「吉田学校」のメンバーなのだ。吉田、佐藤を通じ、田中は徹底的に官僚とは何なのかを学んで行った。
2011-04-13 19:55:048. 田中は日本の頭脳とも呼ばれる大蔵官僚の目前で「今年度の予算は○○円だな」とぶち上げる。すると自分たちの計算と誤差がほとんどないことに、大蔵官僚は驚くことになる。田中が官僚から人気があった理由はカネの力ではない。こういった頭脳による人身掌握術なのである。
2011-04-13 19:55:349. 田中の業績は、日中国交正常化と日本列島改造計画である。後者については土建体質だバラマキだとの批判も大きいが、地方が豊かになってきたことも見逃せない。1970年代当時は、国家インフラが整備されていず、建築土木に巨大な予算を投じることをあながち間違いだとは言えない。
2011-04-13 19:56:0410. 国民的人気の高い田中内閣は、順風満帆な政権運営を図るものと考えられていた。しかし1973年10月に、第一次石油危機(オイル・クライシス)が起り、政局に陰りが見え始めてくる。翌月の内閣改造で田中は、実力者福田赳夫を大蔵大臣に起用し、狂乱物価の鎮静化に乗り出す。
2011-04-13 19:56:3311. 田中は石油危機の打開策として、中東以外からの資源確保に努めるが、これが米国石油資本(メジャー)からの怒りを買うことになる。以前から指摘している通り、米国との距離を拡げた政権は、短命に終る傾向にあるのだ。
2011-04-13 19:57:0412. また田中内閣最大の痛手となったのは、副総理・三木武夫の辞任であった。1974年7月の参議院選徳島選挙区で、田中は内閣官房副長官であった後藤田正晴に、自民党公認を与えてしまった。後藤田は浅間山荘事件、よど号事件当時の警察庁長官で、全国的な知名度があった。
2011-04-13 19:57:3313. しかし徳島は「三木王国」と呼ばれ、現職の久次米健太郎がいた。後藤田が公認されたことで、徳島では久次米vs後藤田の保守分裂選挙となった。これを徳島代理戦争と呼ぶ。結果は三木派の久次米が勝利するが、三木は田中に激怒し、副総理を辞任してしまう。
2011-04-13 19:58:0414. 時期を同じくして福田赳夫も閣僚を辞任。三福が去ったことで、田中内閣の屋台骨が崩れる結果となった。この徳島代理戦争も後のロッキード事件の推移に、陰を落とすことになる。
2011-04-13 19:58:3415. 1974年10月には「文藝春秋」で立花隆が「田中角栄研究」を記し、発足当時は高かった田中内閣の支持率は急落して行く。この記事は波紋が大きかったが、今では田中降ろしを狙った勢力によるプロパガンダだと捉える見方が大きくなっているようである。
2011-04-13 19:59:0316. 1974年11月には田中は、内閣総辞職を決意した。後継者は田中派が推す大平と、反田中の福田赳夫の一騎打ちが予想された。しかし、これでは自民党の分裂も予想されるため、中間派である椎名悦三郎・副総裁の判断に委ねられることとなった。俗に言う椎名裁定である。
2011-04-13 19:59:3417. 椎名裁定は、自民党内の権力構造を踏まえた絶妙な選択であった。福田を推せば主流派の大角が、大平を推せば福田が離反する。少数派閥の三木であれば、派閥政治の批判をかわせ、三木の持論である党近代化をアピールできる。ともあれ当時のメディアは、椎名裁定に驚いた。
2011-04-13 20:00:0318. ゴルフの最中に椎名裁定を聞いた田中角栄は「椎名の爺さん、やるねえ」と周囲に漏らしたそうである。田中はいずれ再登板を考えていたので、少数派の長・三木ならいつでも退陣させることが出来ると考えていた節もある。しかし三木は田中以上のしたたかな政治家であった。
2011-04-13 20:00:3419. 1974年12月、「晴天の霹靂」の言葉をもって内閣総理大臣に就任する。第一章に示した通り、戦後すぐの総理をGHQから打診されたこともあったが、三木は「憲政の常道」を理由に断る。その後、小党や自民党の要職、主要閣僚を歴任し、何度も総裁選に立候補していた。
2011-04-13 20:01:0220. 自民党内から三木は「左のワンポイントリリーフ」と呼ばれていた。金権政治との批判をかわすためにはクリーンさをもって鳴る三木は、総理に最適な存在であったのだ。三木は公職選挙法、政治資金規正法など徹底した政治浄化の政策を打ちだして行った。
2011-04-13 20:01:3321. そこで起ったのがロッキード事件である。今ではロッキード事件は「戦後最大の冤罪」とも言われるようになった。ロッキードの先行する中曽根康弘のP3C哨戒機商談にからむ防衛疑獄の「もみけし」のため、ロッキード事件がリークされたとも言われる。
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