日蓮宗の「釈迦本仏論」がなぜ誤りかを日蓮の真筆御書から読み解いてみた

「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の真の意味を真筆御書より読み解きます。菅田論文(http://file.www4.hp-ez.com/haruosuda/file_20160922-132507.pdf )の補足的な役割として呟きました。
4

数週間に渡って日蓮宗の「釈迦本仏論」の矛盾点や誤りをつぶやいてみました。即興で呟いているので、誤字脱字が多く、又、丁寧に説明しようという一念のためかトートロジーも目につきますが、まあそれはご勘弁を。

komekome39 @komesandazo

さてと、予定通り「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩鈔)について解説しておくか。これを文字通り読んで、末法の本仏は釈迦と読むのが所謂日蓮宗なのだが、これの最も手っ取り早い破折は、「本門に於て二の心有り」(法華取要抄 真筆有り)の御金言だ。加えて開目抄にも、

2018-05-05 23:55:45
komekome39 @komesandazo

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘しづめたり」とある。真筆が現存していない御書にまで範囲を広げたならば、「又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」「曾谷殿御返事(成仏用心抄)」というのもある。

2018-05-06 00:02:04
komekome39 @komesandazo

これらの御書から導かれる答えはただ一つ、本門寿量品には二通りの読み方が存在していることだ。そして法華取要抄によれば、一つの読み方(文上)は釈尊在世の時のためのもの、もう一つの読み方は釈尊滅後の時のための読み方(文底)ということができる。そしてこの事実を無視しているのが所謂日蓮宗。

2018-05-06 00:13:13
komekome39 @komesandazo

それでは、「本門の教主釈尊」を、我々の時代に適応している文底の読み方で読んだら果たしてどうなるのか、というのが最大の課題となる。そして、仮に文上も文底も全く同様に、「本門の教主釈尊」=「インドの釈尊」と読むならば、なぜわざわざ二つの読み方を設ける必要があったのかという疑問が生じる

2018-05-06 00:18:12
komekome39 @komesandazo

さて、ここで意図的に、文上の読み方も文下も読み方も、共に「本門の教主釈尊」=「インドの釈尊」を表していると仮定してみよう。すると説明が出来ないような矛盾が存在しているのだ。先ずは次の真筆御書から。 「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」 (南条殿御返事)

2018-05-11 22:42:15
komekome39 @komesandazo

「同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか、近来念仏者天下を誑惑するか」 (石本日仲聖人御返事) すなわち、今述べた二つの真筆御書により、末法においても、主師親の三徳を備えた存在は、釈尊以外に存在しないと結論できる。ところがである。

2018-05-11 22:43:14
komekome39 @komesandazo

「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ」(一谷入道御書 真筆有り)  日蓮大聖人も主師親の三徳を備得ておられるとここで明言しておられる。 又、有名な開目抄からも、日蓮大聖人も釈尊同様に、主師親の三徳を備えておられることを読み解くことができる。

2018-05-11 22:46:03
komekome39 @komesandazo

「一体の仏を主師親と作す」(一代五時鶏図) とあるように、仏法上において、一つの時代に二体の本仏が出現することはないとされる。よって、「本門の教主釈尊」を、インドの釈尊と読むのは明らかに御書に矛盾していることがわかる。矛盾点は実はこれだけではない。

2018-05-14 23:46:12
komekome39 @komesandazo

「本尊とは勝れたるを用うべし」(中略)「釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とする」(本尊問答抄) ここでは法が仏に勝るとして、釈尊を退け、代わりに法による本尊を中心とするようにと述べられている。勿論、人法一箇の原理から、釈尊を人としての本尊とするという解釈もあるが、

2018-05-14 23:57:39
komekome39 @komesandazo

これも真筆御書から、矛盾点が出てしまうのだ。 「釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候」(国府尼御前御書) 法華経の行者(大聖人)を供養する功徳は、釈尊を供養するよりも遥かに勝るとの仰せだ。

2018-05-15 00:03:50
komekome39 @komesandazo

「釈迦仏は我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給いて候」(法妙人貴事)  これも全く同様の内容の御書。真筆は存在しないが、日興上人の写本が存在している。

2018-05-15 00:11:33
komekome39 @komesandazo

又、近年発見され、真筆御書、妙一尼御返事において大聖人は、妙一尼の信心の志は、既に前世の釈尊を超えている。その因は、必ずや、釈尊と同等の仏となるであろう(斉等ならざらんや、斉等ならざらんや)とおっしゃられている。今までは功徳の点から大聖人と釈尊を比較したのだが、次は罰の観点から。

2018-05-15 00:19:29
komekome39 @komesandazo

「汝日蓮を侮如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり」 (顕仏未来記) 大聖人を侮如する罪は、釈尊を侮如する罪にも勝るとはっきりと述べられた真筆御書。今までの御書を総括すると、大聖人を供養する功徳も、侮如する罪も、釈尊をそうする功徳/罪よりも大きいということが言えるのだ。

2018-05-15 00:24:06
komekome39 @komesandazo

仮に釈尊を人本尊としたならば、「本尊とは勝れたるを用うべし」という原理から明らかな矛盾が生じてしまう。さらにもっと素朴な観点として、大聖人直筆の曼荼羅は、常に南無妙法蓮華経と日蓮がワンセットになっているということだ。身延一派は、「日蓮」を単なるサインと考えているようだが、

2018-05-15 00:28:01
komekome39 @komesandazo

仮に釈尊こそが人本尊ならば、なぜ南無妙法蓮華経 釈迦如来 といった構図にならなかったのか全く説明がつかない。又、南無妙法蓮華経の真下に日蓮がないから、これらはワンセットではないという議論もあるが、これはもう単なるこじつけのようなもので議論に値しない。

2018-05-15 00:31:23
komekome39 @komesandazo

又連中は、大聖人は教主釈尊の弟子だから、釈尊が大聖人よりも勝ると主張するが、かつて阿私仙人(提婆達多の前世)が釈尊の師匠だった関係からするに、必ずしも師匠>弟子という関係が仏法上成り立つわけではない。又、地涌の菩薩だから、仏よりも劣るという議論もあるが、

2018-05-15 00:34:35
komekome39 @komesandazo

彼らは仏と全く同様の三十二相を備えており、外面は菩薩であるが、その内証は仏であるということがいえる。従って、身延一派の主張は全て成り立たない。

2018-05-15 00:36:55
komekome39 @komesandazo

又身延一派は、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず」という観心本尊抄を引用し、現在の娑婆世界にも釈尊は滅せず常住しているから、釈尊こそが末法の本仏であると主張しているようだが、これは珍説以外の何物でもない。その理由は前の文だ

2018-05-15 23:12:45
komekome39 @komesandazo

「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」 すなわち、釈尊だけではなく、全宇宙の我々一切衆生の全てが、無始無終の存在であることを述べた箇所。すなわち「過去にも滅せず未来にも生ぜず」の存在は釈尊だけではないということだ。

2018-05-15 23:26:27
komekome39 @komesandazo

それならば、釈尊と同様に「過去にも滅せず未来にも生ぜず」の存在であり、しかも前世の釈尊の師匠でもあり(身延一派によれば、師匠は常に弟子よりも勝るそうなので)、又、釈尊の実父でもある大通智勝如来の方が本仏として相応しいではないかという議論が成り立ってしまうのだ。

2018-05-15 23:34:15
komekome39 @komesandazo

しかし現実は、正法 像法 に相応しい本尊は釈尊であることは、御書をあえて引用しなくても疑う余地はないだろう。ここでも又、釈尊を末法の本尊だと仮定したならば、矛盾が生じてしまうのだ。それではこれら多くの矛盾の元凶となるものはどこにあるのか?これを解明することがとても重要な課題となる。

2018-05-15 23:39:40
komekome39 @komesandazo

石本日仲聖人御返事によれば、同じ時期に二体の仏が同時に出現することはないとされるが、法華経を説いたのは釈尊だけに限らないのだ。日月灯明仏、大通知勝仏、多宝如来といった多彩な仏が過去に法華経を説いたとされる。この事実が意味するものはただ一つ。

2018-05-15 23:57:28
komekome39 @komesandazo

仏を仏足らしめた法はただ一つであり、永遠に不変だが、その法を説く仏は、同時期に二人出現しないが、衆生の機根に合わせて登場し、そして次の仏に交代していくというものだ。すなわち、今までの矛盾点の根源は、釈尊とういう仏は、法と同様に永遠に不変の本尊という誤った仮定が元凶ということだ。

2018-05-16 00:06:04
komekome39 @komesandazo

そして、法華経の教主交代という概念を間接的に示しているのが、真筆御書の日妙聖人御書だ。釈尊以前の人々が、どう法華経を求めて成仏したかという話が記述され、法華経それ自体は不変だが、その時代によって成仏する方法は異なると述べられている。「仏になる行は時によるべし」。この一節は重要だ。

2018-05-16 22:42:21
1 ・・ 4 次へ