- nikko81_fsi
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信虎って、信縄の側室の子だったんだねぇ。春日居町下岩下に甲斐国志が伝える信虎誕生屋敷跡があるそう。勝沼を名乗る信友が正室崇昌院殿の子かも、と。ただ年次的に信虎より長じた男子なく、戦える武田の御曹司としては信虎しかいなかったのかな。にしても10歳とかそこらですが………
2018-06-16 14:34:59信虎夫人というと大井夫人(瑞雲院殿)しか印象にないが、資料にはっきり残る人として、西昌院殿も。円光院文書に「御西」とあり、大井夫人の御北様と同じく屋形の北、つまり西曲輪に住んだそうなことが甲斐国志にあるそう。
2018-06-16 16:37:44西曲輪というと義信の空間というイメージがあるが、信玄後期から勝頼期の西曲輪の使われ方を彷彿させるものとして興味深い。天正三年一月没。勝頼が菩提を弔うために西昌院を建立するということは長生きしただろうことと大井夫人に次ぐ立場というのは理解できる。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2018-06-16 16:40:24京上臈。信虎の在京時代の側室?と見られる女性。新府から落ち延びる勝頼一行に「信虎京上臈のむすめ」(信長公記)との記述があるそう。信虎在京は永禄初年頃から…てことは早くてその娘は1558〜60年くらいの生まれ?信虎60代の子か…すげえな。駿河でも、また伝承としては甲賀でも子作りしてるし。
2018-06-16 16:55:20京上臈はよく事績がわからないが、娘は信虎とともに高遠まで来て信虎死後に甲斐に入ったのだろう。当時14〜5歳くらいか。武田滅亡時は20代前半。勝頼と運命を共にしたか…勝頼、この年下の叔母をどこかに嫁がせてあげられなかったのかな。信虎の娘という難しい立場を想像する… twitter.com/nikko81_fsi/st…
2018-06-16 16:59:15駿河での信虎の子というと武田上野介信友がいるが、菊亭晴季に嫁いだ女子もいたらしい。天文十四年年生まれ、母未詳。言継卿記、永禄三年一月の条に「菊亭左大将今日嫁取云々、甲州武田入道云々」とあるとか。信虎娘15歳、菊亭晴季21歳。子にも恵まれるが豊臣秀次に側室となり処刑された子もいる…
2018-06-16 17:12:39これ…公家衆とのパイプとしてはすごくない?信玄勝頼ともあまり使わなかったのかな…菊亭晴季が従一位右大臣に昇ったのが天正十三年(天正十年時点では内大臣)だから、元亀〜天正十年まではまだそこまで影響力なく活用できないか。しかし、この婚儀を取り付けた信虎すごくない? twitter.com/nikko81_fsi/st…
2018-06-16 17:19:01江戸時代初期に成立したという笑い話集「醒睡笑」に信虎娘と菊亭晴季の婚儀に関わる信虎の話。気が早すぎる信虎は婚儀が纏まる前に婿の顔を見るために菊亭邸へ挨拶に行った元気すぎる爺さん、と詠った落首が収録されてるとか。やったったー!と逸る気持ちダダ漏れ感が出ていておもしろすぎる。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2018-06-16 17:27:5260代でも子作りに精を出し、未来ある公卿に娘を嫁に出し、パワーあふれる信虎ぱぱんすごい。個人的に追放されたあとがやっぱり興味深くて。晩年に差し掛かった信虎・信玄の(明確な)連携見たかったなぁ。信玄公長生きしてればあったのかなぁ。脳内でIF物語生成がはかどる(笑)
2018-06-16 17:35:28